第5回「JSのお悩み相談室(※中身は居酒屋の愚痴)」
じっとりとした湿気が、夕暮れの児童公園のベンチを濡らしていた。
雨上がりのアスファルトから立ち上る、独特の土臭い匂い。遠くでカラスがカァカァと不吉に鳴き、ちぎれた雲の隙間から、濁った茜色の光が差し込んでいる。
(う、動けねぇ……。背中が鉄板みたいに固まってる……)
私はブランコの鎖に両手でつかまったまま、心の中で盛大に毒づいていた。
今日も今日とて、会社でクソ上司から理不尽な押し付け仕事を喰らった。
「君、独身で身軽なんだからさぁ、これ明日までにやっといてよ」
思い出すだけで、口の中に苦い胃液がせり上がってくる。
心身ともにボロ雑巾の状態でたどり着いた、魔法少女の定例ミーティング。
しかし、目の前に立つ心愛の様子が、いつもと違っていた。
いつもなら「ななこちゃん!」と真っ先に駆け寄ってくるはずの彼女が、今日はリュックの紐を指先できつく握りしめ、うつむいている。
ローファーのつま先で、地面の濡れた砂をせわしなくこする音が、静かな公園に寂しく響いた。
「心愛ちゃん、何かあった?」
「……あのね、ななこちゃん」
心愛の声は、蚊の鳴くように細かった。
横に立つ凛とひまりも、心配そうに彼女を見守っている。
「学校のグループワークでね……。みんながやりたがらない面倒な係を、全部押し付けられちゃったの。断ろうとしたんだけど、みんな『心愛ちゃんはしっかり者だから〜』って言って、誰も手伝ってくれなくて……」
ぽつり、ぽつりとこぼれ落ちる言葉。
その瞳には、今にもこぼれ落ちそうな涙の膜が、夕日に反射してキラキラと光っていた。
(あーーーーーー、それ。知ってる。知ってるわ。それ完全に、職場で押し付け合いが発生した時のクソみたいなタスク回しと同じ構図じゃない……!)
心愛の悩みが、今日の今日、私が職場で喰らった理不尽と完璧にオーバーラップした。
二十四歳、限界OLの脳内で、何かがブチ切れる音がした。
子供のフリ?
JSの擬態?
そんなものは、この溢れ出る「社畜の怒り」の前では、一瞬で塵となって吹き飛んだ。
「心愛ちゃん」
私はブランコから立ち上がり、心愛の前に歩み寄った。
声のトーンは完全に低く、居酒屋で後輩の愚痴を聞く時の「ガチの大人のトーン」になっていた。
「あのね。そんなクソみたいな案件、まともに受ける必要は一切ない。それは役割の『押し付け』であって、正当な業務分担じゃないの。完全にコンプライアンス違反だよ」
「え……? こんぷら……?」
心愛が呆然と目を見開く。
私は彼女の小さな両肩を、がっしりと掴んだ。
「いい? 世の中にはね、『押し付けやすい人に仕事を投げる』っていう最低のライフハックを使う人間が一定数いるの。そこで引き下がったら、次からもずっと都合のいいゴミ箱扱いされる。だから、次に何か言われたら、こう言いなさい」
私は人差し指を立てて、営業スマイル(ただし目が全く笑っていないやつ)を作ってみせた。
「『大変申し訳ありませんが、私の現在のリソースでは、これ以上のタスクを抱えることは不可能です。もしどうしてもと言うのであれば、先生(上司)を交えて、全体の進捗と割り振りの再調整を要求します』って、笑顔で、冷たく言い放つのよ」
はっきりと、容赦なく言い切った。
それは、私が数々の無理難題を吹っかけてきた取引先を論破し、撃退してきた時の黄金のフレーズだった。
「有給(不登校)とまでは言わないけれど、心が擦り切れるくらいなら、風邪を引いたことにして一日くらい学校をリフレッシュ(バックレ)しちゃいなさい。自分の身を守れるのは、自分だけなんだから」
ハッと我に返った。
対面にいる三人の小学生たちが、石のように硬直している。
心愛は涙を流すのも忘れて、口を小さく開けたまま私を見上げている。凛とひまりも、まるで「人生の真理に触れてしまった」かのような、恐ろしいほどの衝撃を受けた顔をしていた。
(や、やらかした……!!)
背中に、今日一番の冷たい汗が、だらだらと流れ落ちる。
子供の相談に対して、「リソース」だの「タスク」だの「バックレ」だの、世知辛すぎる大人の処世術を全力で叩き込んでしまった。
これでは魔法少女はおろか、JSですらない。
どう見ても、ただの人生に疲れた不審なお姉さんである。
「あ、あうぅ……! ななこ、いまのは、テレビでみた大人の真似っこさんだったんだよぉ……! みんな、びっくりちちゃったよね、ごめんねぇ……っ♪」
慌てて裏返ったロリ声を出し、頭の後ろで手を振ってごまかそうとする。
しかし。
少女たちの瞳に宿ったのは、引き気味の感情ではなかった。
じわり、と。
心愛の瞳の奥に、かつてないほどの、狂信的とも言えるほどの熱い光が灯っていく。
「……そっか。私のリソース……、再調整……」
心愛は、私の言葉を一つ一つ、噛み締めるように呟いた。
彼女の目から、すっと涙が消え、代わりに強固な意志が宿る。
「ななこちゃん。……ううん、ななこお姉ちゃん。私、分かった。私のために、私を守るために、こんなに強い『大人の武器』を教えてくれたんだね」
「え? いや、真似っこさんで……」
「凄い。的確すぎる……。ななこちゃん、やっぱり、ただ者じゃない。社会の闇と戦う本物の戦士だ……」
凛が、震える手で自身のメモ帳に私のセリフを書き留めている。やめて、小学生のノートにそんな汚い大人の言葉を残さないで。
「ウチ、ななこちゃんのそういう、たまに牙を剥くところ、本当に尊敬しちゃう……っ! かっこよすぎて、心臓がバクバクするよ!」
ひまりが私の腰にしがみつき、顔をすり寄せてくる。彼女の体温が、私の冷え切った社畜の身体にじんわりと染み込んでいく。
「ななこお姉ちゃん。私、明日、その通りに言ってみる。お姉ちゃんが後ろにいてくれると思えば、私、誰に何を言われても怖くないよ」
心愛が私の手を両手で握りしめた。
その小さな手のひらは、驚くほど力強かった。
とっくに、中身が薄汚れた大人であることはバレているはずだ。
それでも、彼女たちは私の「擦り切れた大人の本音」を、自分たちを救ってくれる気高い智慧として、全力で、全肯定で愛してくれたのだ。
じっとりとした夕暮れの風が、私たちの間を吹き抜けていく。
少女たちの、どこまでも重く、そして甘いリスペクトの視線に囚われながら、私は自らの擬態の敗北と、それ以上に深い、心地よい敗北感の中に、ただ身を委ねることしかできなかった。




