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第3回「大人の世渡り(物理)で、なぜかリーダーになる」


突如として、大気が凍りついた。

夕暮れのオレンジ色に染まっていたはずの公園が、一瞬にしてどす黒い紫色の霧に覆われる。


ザザ……ザザザ……。


耳障りなノイズが響き、子供たちの歓声がピタリと途絶えた。

結界だ。一般人を遠ざけ、空間を切り離す異界の壁。


鼻を突くのは、腐った泥と、焦げたゴムが混ざり合ったような不快な悪臭。

公園の砂場の中央から、ぐにゃりと空間が歪み、巨大な影が這い出てきた。それは、歪な三輪車に無数の目玉がこびりついたような、おぞましい異形の怪物――魔獣だった。


『ギギギ……ギガァァァァァッ!!』


鼓膜を揺らす、金属を掻き毟るような咆哮。風圧が肌をピリピリと刺す。


「きたキュン! みんな、変身するキュン!」


毛玉妖精の叫びと同時に、心愛、凛、ひまりの三人が前に出た。彼女たちの身体が眩い光に包まれ、一瞬にして色鮮やかなフリルの衣装へと変わる。


「……っ」


私は、その光景を後ろから見ていた。

圧倒的な質量を持つ恐怖。本物のバケモノを前にして、足がガタガタと震える。

しかし、それ以上に私の目を引いたのは、前に立つ少女たちの小さな背中だった。


心愛の肩が、微かに震えている。

凛はきつく唇を噛み締め、ひまりはステッキを握る手にぐっと力を込めていた。


(この子たち、怖がってる……?)


そうだ。いくら魔法少女の力を得ていようと、彼女たちはまだ十歳そこらの子供なのだ。

こんなおぞましい怪物と、これまでもずっと、恐怖を押し殺して戦ってきたのだ。


その瞬間、私の中で、恐怖を上回る別の感情が沸き上がった。

それは、数々の無理難題を押し付けるクソ上司や、理不尽な取引先との交渉を乗り越えてきた、社畜としてのド根性と、大人としての責任感だった。


(しっかりしろ。いつまで子供に気を遣わせて、守られてるんだ、私は……!)


「ピュアラ・パステル・チェンジ……っ!!」


覚悟を決めて叫ぶ。

一瞬にして全身を駆け巡る熱い奔流。リクルートスーツが弾け飛び、ピンクのフリフリ衣装へと変身を遂げる。

手には星のステッキ。恥ずかしくて死にたくなる姿だが、背に腹は代えられない。


『ギシャァァァッ!』


魔獣が、無数の目玉をぎょろつかせながら、突進してきた。標的は心愛だ。


「心愛ちゃん、下がって!!」


私は叫ぶと同時に、生足のソックスで地面を強く蹴り上げた。

変身した身体は、驚くほど軽い。まるで重力から解放されたかのように、一跳びで十メートル以上も跳躍し、心愛の前へと滑り込んだ。


「えっ、ななこちゃん!?」


背後で心愛が目を見張る。

眼前に迫る、三輪車のバケモノ。突進の風圧で、私の前髪が激しく煽られる。


(落ち着け、高橋菜々子。これは、納期前日に急な仕様変更をぶち込んできたクライアントだと思えばいい。要するに、相手の動向を観察し、最短ルートで合理的に処理するだけ……!)


大人の状況判断力が、フル回転を始める。

魔獣の動きは大振りだ。スピードはあるが、直線的すぎる。いわゆる「力押し」のワンパターン。


「凛ちゃん、右から注意を引いて! ひまりちゃんは左から攪乱!」


「えっ……あ、うん!」

「わ、分かった!」


私の凛とした声――いつの間にかロリ声を作るのを忘れていたガチのトーン――に押され、二人が動いた。

右から凛の放った氷の弾丸が魔獣の車輪をかすめ、左からひまりの光の矢が目玉を威嚇する。


『ギガッ!?』


魔獣の意識が左右に分散し、わずかに前進の勢いが鈍る。


(今。完全なノーガード、致命的な隙!)


「なめんなぁぁぁぁぁ!!」


私はステッキを両手で逆手に握り直した。

魔法少女の正しい使い方は知らない。光のビームの出し方も分からない。

だが、このステッキには、物理的な質量と硬度がある。


フリルの隙間から覗く生足を爆発させて跳躍。魔獣の脳根めがけて、上空からステッキを真っ直ぐに振り下ろした。

それは、理不尽な残業を命じられた日の、すべての鬱憤を込めた渾身の一撃。


ゴガァァァァァンッ!!!


鈍い、重低音が公園に響き渡る。

ステッキの先端が魔獣の脳天を正確に捉え、凄まじい衝撃波が周囲の霧を吹き飛ばした。


『ギ、ギガァァァ……ッ!?』


三輪車の魔獣は、白目を剥いて、そのまま地面へと崩れ落ちた。やがて、黒い煤のような粒子となって、サラサラと空気中に溶けて消えていく。


静寂が戻った。

ゼェ、ゼェ、と自分の荒い呼吸の音だけが響く。額の汗を、手袋の甲で乱暴に拭った。


「ふぅ……。有給消化の精神に比べれば、この程度のバケモノ、なんてことないわね……」


ぽつりと溢れた、完全なるアラサーの本音。

ハッと我に返り、慌てて口を塞いだが、時すでに遅し。


振り返ると、心愛、凛、ひまりの三人が、変身を解いた姿で、口をあんぐりと開けて私を見つめていた。


(や、やばい。大人の怒号みたいな声出しちゃった。完全に引かれたかも……)


冷や汗が背中を伝う。

しかし、彼女たちの瞳に宿っていたのは、困惑ではなかった。

キラキラとした、純粋な、圧倒的なリペクトの光。


「ななこちゃん……すご、い……」


心愛が、震える声で一歩踏み出してきた。


「指示、すっごく的確だった……。私、怖くて動けなかったのに、ななこちゃん、すっごく格好よくて……」


「え? あ、いや……」


「うん。あんなに迷いのない動き、初めて見た。ななこちゃん、もしかして、伝説の戦士なの?」


凛が真剣な表情で詰め寄ってくる。伝説の戦士ではなく、ただのブラック企業戦士です。


「決まりだねっ!」


ひまりが私の両手をぎゅっと握りしめ、満面の笑みを浮かべた。


「ななこちゃん、ウチたちのリーダーになって! ななこちゃんがいてくれたら、どんな魔獣も怖くないよ!」


「えっ? り、リーダー!?」


「うん、私も大賛成。ななこちゃん、私たちのこと、引っ張っていって?」


心愛が、慈愛と熱い信頼の入り混じった瞳で私を見つめる。


とっくに大人だとバレているはずなのに。

必死の擬態が筒抜けだったはずなのに。

彼女たちは、私の「大人の合理性と執念」を、最高の強さとして受け入れ、満場一致でトップに祭り上げようとしていた。


『やったキュン! これで「チーム・パステル」のリーダーはななこちゃんに決定キュン!』


クソ妖精が頭上でダンスを踊る。


「ちょっと待って、私はただの――」


「「「よろしくね、リーダー!」」」


三人の少女たちの、無邪気で、どこか重いほどの巨大な信頼の視線に包まれて、私はそれ以上言葉を紡ぐことができなかった。


こうして、二十四歳の限界OLは、柄にもなく小学生魔法少女たちの「総大将」に就任してしまったのだった。

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