第2回「はじめまちて! ななこだよ!(死にたい)」
じっとりと手のひらににじむ脂汗が、スマホの画面を汚していく。
夕暮れ時の北口公園。子供たちの甲高い歓声と、砂場の乾いた匂いが風に乗って鼻腔をくすぐる。
(無理。本当に無理。帰りたい)
ベンチに腰掛けた私は、胃を雑巾のように雑に絞られるような激痛に耐えていた。
手元のスマホ画面に表示されているのは、昨晩から血眼で調べ尽くした『現役JS(女子小学生)のトレンドワード一覧』の個人メモだ。
ぴえん、はもう古い。
今は何だ? 何が流行っている? 言葉遣いはどうすればいい?
周囲を見渡せば、元気に走り回る本物の小学生たち。その無垢な光景が、今の私には鋭利な刃物のように突き刺さる。
二十四歳、メーカー営業職。
昨夜、あのポンコツ妖精に無理やり契約させられた私は、指定されたこの場所に立っていた。
『あ! 見つけたキュン! ななこちゃん、こっちキュン!』
頭の中に直接響く、あの耳障りな高音。
びくりと肩が跳ねる。
公園の奥、大きなガジュマルの木の木陰から、あのピンクの毛玉がひょっこりと顔を出していた。
そして、その足元には。
「……あ」
思わず、小さく声が漏れた。
そこにいたのは、三人の女の子たちだった。
カラフルなリュックサック。キャラクターもののキーホルダー。 幼い、そして瑞々しい、本物の子供の気配。
「ななこちゃん、お待たせキュン! この子たちが、君の先輩魔法少女の仲間たちキュン!」
妖精が能天気に羽ばたく。
三人の少女たちの視線が、一斉に私へと注がれた。
品定めするような、純粋ゆえに容赦のない視線。
じりじりと肌が焼けるように熱い。
私はごくりと唾を飲み込んだ。乾ききった喉が、かすかに鳴る。
(やるしかない。ここで大人の不審者として通報されたら人生が終わる。私は子供。私はちっちゃい女の子。私はJS、私はJS……!)
脳内で狂ったように自己暗示をかけ、限界まで顔の筋肉を引き上げた。
目を限界まで見開き、声を二オクターブ上げる。
「は、はじめまちて……っ! ななこだよぉ! みんな、よろしくねっ♪」
言った。
言い切ってしまった。
言い終えた瞬間、脳裏をよぎったのは、実家の両親の顔と、これまでの人生の歩みだった。
叫び出したいほどの恥羞が、一気に頭頂部まで駆け上がる。顔が、沸騰したヤカンみたいに熱い。
「……」
「……」
「……」
訪れたのは、完全なる静寂。
公園の喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように遠ざかる。
三人の少女たちは、完全にフリーズしていた。
センターに立つ、ツインテールの少女。彼女の手元で、 キモかわなウサギのキーホルダーが、風に揺れて揺らゆらと虚しく揺れている。
彼女たちの瞳の奥の光が、一瞬で消えたのを私は見逃さなかった。
(あ、終わった)
怜悧な、大人のそれと変わらない、すべてを察したような眼差し。
そりゃそうだ。
いくら身長が百五十センチメートルしかなくても、肌の質感、立ち姿、そして何より身にまとっている空気が「疲れ切った大人のそれ」なのだ。
必死に作ったロリ声の痛々しさが、夕暮れの公園に虚しく霧散していく。
沈黙が、重い。
空気が粘り気を帯びたように息苦しい。
私の額から、一筋の冷たい汗が頬を伝って流れ落ちた。
すると、ツインテールの少女が、ふっと小さく息を吐いた。
彼女は、隣にいるショートカットの少女と、おずおずと視線を交わし合う。その目は、まるで『道端で怪しい行動をしている可哀想な大人』を見る時の、あの生温かい慈悲に満ちていた。
「……うん。よろしくね、ななこちゃん」
ツインテールの少女が、あえてゆっくりと、幼児に言い聞かせるような優しいトーンで微笑んだ。
「私は心愛。小学五年生だよ。ななこちゃん、お名前可愛いね」
「あ、ありがとぅ……(小学生にお名前褒められた……死にたい)」
「私は凛。同じく五年生。よろしく、ななこ」
クール系のショートカットの少女が、どこか同情をはらんだ目で私を見つめる。
「ウチは、ひまり! 四年だよ! ななこちゃん、ちっちゃくて可愛い〜!」
あざと可愛い雰囲気の少女が、私の手をごしごしと両手で包み込んできた。
その手のひらは、柔らかくて、とても温かい。
だけど、彼女たちの笑顔の裏側には、明確な『気遣い』があった。
(絶対にバレてるよ。一秒で看破されてる。子供のフリが痛すぎて、逆に気を遣われてる……!)
彼女たちは知っているのだ。
目の前にいる「ななこちゃん」が、どう見ても自分たちより年上の大人であることを。
だけど、何か深い事情があって、必死に子供のフリをしているのだと、そう解釈して合わせようとしてくれているのだ。
圧倒的な包容力。
精神年齢の逆転現象。
私は恥ずかしさのあまり、その場にしゃがみ込んで頭を抱えたくなった。
「ななこちゃん、お腹空いてない? これ、おやつにあげるね」
心愛がリュックから取り出したのは、人気アニメのシール付きのチョコレートだった。
差し出されたそれを、私は震える手で受け取る。
「……う、うん。ありがと」
『よかったキュン! みんな最初から大の仲良しキュンね! これで次の戦いもバッチリキュン!』
空気の読めない毛玉が、私たちの頭上を嬉しそうに飛び回る。
少女たちの、生温かい、しかし確かな優しさが詰まった視線が、容赦なく私の全身を包み込んでいく。
私はチョコレートの冷たいアルミの感触を握りしめながら、ただひたすらに、一刻も早い世界の平和を願うことしかできなかった。




