第1回「えっ、私が魔法少女ですか?(24歳・OL)」
じっとりとした生ぬるい夜風が、ストッキングに包まれた足を撫でていく。
深夜一時。街頭の明かりだけが頼りの住宅街は、死んだように静まり返っていた。
(……足が、限界……)
パンパンにむくんだふくらはぎが、一歩歩くごとに悲鳴を上げる。
ヒールの底がアスファルトを叩く硬い音が、やけに大きく周囲に響いた。
乾いた口内に残るのは、深夜残業中に胃へ流し込んだ、冷めきった缶コーヒーの苦味だけ。カバンに詰め込んだ書類の重みが、容赦なく右肩に食い込んでいる。
高橋菜々子、二十四歳。
職業、文具メーカーのしがない営業職。
チャームポイントは、中学生にすら間違えられる童顔と、悲しき百五十センチメートルの超低身長。
今日も今日とて、上司の急な思いつきに付き合わされ、終電を逃した。
タクシー代なんて出るわけもない。
ただひたすらに、自宅アパートを目指して、重い足を前に進めるだけの泥泥とした時間だった。
その時。
キィィィィィィン、と。
耳の奥を直接引っ掻くような、甲高くて不快な金属音が響いた。
「っ……な、に……?」
思わず耳を塞ぐ。
同時に、ぐにゃりと視界が歪んだ。
いつも通りのはずの、見慣れた電柱。
それが、まるで水面に映った影のように波打ち始める。
アスファルトの黒い地面から、赤黒い、泥のような不気味な気体がじわじわと染み出し、夜の空気をじっとりと侵食していった。
鼻を突く、ツンとした焦げ臭い匂い。
生き物の気配が、一瞬で消えた。
虫の声も、遠くを走る車の音も、何一つ聞こえない。
ただ、異様な静寂と、ねっとりとしたプレッシャーだけが肌にまとわりつく。
――ガサッ。
頭上の街路樹が大きく揺れた。
「ひゃいっ!?」
情けない声が出た。
見上げると、そこには『それ』がいた。
ピンク色の、丸っこくて、無駄にキラキラした生き物。
少女漫画に出てくるマスコットを、そのまま三次元に引っ張り出してきたような姿。だが、その背中には、ハエのように忙しなく羽ばたく薄い羽が生えている。
そいつは、大きな瞳をぐるぐると輝かせながら、まっすぐに私を見下ろした。
『見つけたキュン! これほどまでに純粋で、穢れを知らない小さき魂……!』
声が、頭の中に直接響く。
アニメ調の、やたらと高い声だ。
「え、あ、何……? 幻覚……?」
疲れすぎて、ついに脳がイカれたのだろうか。
目をこすっても、ピンクの物体は消えない。それどころか、空中で一回転して、私の鼻先まで突き進んできた。
『危ないキュン! この街は今、絶望の魔獣に狙われているキュン! お願い、ボクと契約して、世界を救う魔法少女になってほしいキュン!』
「はい?」
はちみつよりも甘ったるい匂いが、鼻腔をくすぐる。
世界を、救う。
魔法、少女。
二つの単語が、私の脳内で完全に迷子になった。
「あの、すみません。私、もう二十四なんですけど……」
『何を言っているキュン? こんなに小さくて可憐で、ランドセルが似合いそうな女の子が、大人なわけないキュン!』
「ランド……っ」
グサリ、と心の柔らかい部分に鋭いトゲが刺さる。
確かにチビだけど。スレンダーというより寸胴だけど。スーツ着てるだろ、スーツを。
『時間がないキュン! 闇の力が来るキュン! はい、これ持って「ピュアラ・パステル・チェンジ」って叫ぶキュン!』
「いや、待って、無理――」
拒絶の言葉を口にするより早く、ピンクの物体が私の胸元に体当たりしてきた。
パシィィィィン!
激しい閃光。
思わず目を瞑る。
次の瞬間、身体の中心から、お湯を注がれたような熱いエネルギーが猛烈な勢いで四肢へと広がっていった。
足元から吹き上がる、強烈な花の香りの突風。
「きゃあぁぁぁぁっ!?」
自分の意思とは無関係に、身体が宙に浮く。
身にまとっていたリクルートスーツが、粒子となって弾け飛ぶ感覚。
代わりに、皮膚を滑るような、サラサラとしたシルクの感触が全身を包み込んでいく。
背中にひらひらと広がる大きなリボン。
胸元には、不釣り合いなほど巨大なピンクの宝石。
髪の毛がぐんぐんと伸び、ふわりと持ち上がる感覚。
ドン、と足の裏に軽い衝撃。
地面に着地した瞬間、視界を覆っていた光がサッと引いていった。
「……は?」
呆然と、自分の両手を見る。
白い、フリルのついた手袋。
下を向くと、そこには信じられないほど短い、パステルピンクのフリフリしたミニスカートが広がっていた。
ストッキングの締め付けは消え、生足にソックス。
手には、プラスチック製のおもちゃのような、星のついたステッキが握られている。
『やったキュン! 完璧な魔法少女の誕生だキュン!』
妖精が嬉しそうに私の周りを飛び回る。
私は、ゆっくりと、恐る恐る、近くの民家の窓ガラスに近づいた。
暗いガラスに映る、自分の姿。
そこにいたのは。
大きなリボンを頭につけ、フリルとレースの暴力のような衣装をまとった、どこからどう見ても『完璧な女児向けアニメのヒロイン』だった。
顔は、確かに自分の顔だ。
だが、衣装のせいで、ただでさえ低い身長がさらに強調され、完全に「背伸びした小学生」にしか見えない。
(死にたい)
心臓が、恐怖とは全く違う理由で激しくドクドクと脈打つ。
全身の血の気が、一気に引いていくのが分かった。
二十四歳、社会人。
趣味は家飲みと給与明細の確認。
そんな限界OLが、深夜の住宅街で、生足ミニスカの魔法少女コスプレをさせられている。
もし、今、ここで警察官に見つかったら?
もし、近所の住民に目撃されて、SNSに動画でもアップされたら?
『深夜に熱唱するアラサーコスプレイヤー』として、社会的に抹殺される。
「戻して」
カサカサの、掠れた声が出た。
「お願いだから、今すぐ戻して。服を返して。私、明日も朝九時から会議があるの。資料の印刷もしなきゃいけないの。お願い」
『何言ってるキュン? これから悪い魔獣を倒しに行くキュンよ!』
「行くわけないでしょ!! 労災下りない仕事はしない主義なの!!」
必死に叫んだその時、妖精が「あ」と短い声を漏らした。
『あ、大変キュン。今日の分の魔獣の気配が消えたキュン。別のエリアの先輩魔法少女が倒しちゃったみたいキュン』
「……え?」
『じゃあ、今日のところは解散キュン! 明日、他のメンバーを紹介するから、放課後にこの街の北口にある公園に集まるキュン! 絶対キュンよー!』
それだけ言うと、ピンクの塊は光の中に消え、私の衣服は一瞬で元のくたびれたスーツに戻った。
どっと、一気に疲労が押し寄せる。
足元を見ると、投げ出されたカバンと、変わらない夜の静寂。
今のは、夢だったのだろうか。
いや、手のひらには、あのプラスチックのステッキの、安っぽい感触の残滓が確かにこびりついている。
「明日……放課後……?」
放課後ということは、つまり。
他のメンバーとやらは、本物の、現役の学生ということだ。おそらく、十中八九、小学生か中学生。
その中に、この二十四歳の薄汚れた大人が混ざれというのか。
あのピンクのフリフリを着て。
「嘘でしょ……」
私は頭を抱え、夜の住宅街で、ただ一人絶望に震えることしかできなかった。




