第15回「魔法少女のお姉ちゃんは、これから一生甘やかされる」
ちゅん、ちゅん、と。
遮光カーテンの隙間から差し込む、柔らかな朝の光。
それと同時に、どこか高級なサロンを思わせる、甘いホワイトムスクの香りが私の鼻腔を優しくくすぐった。
(……あれ? ここ、どこだっけ……?)
私はゆっくりと目を覚まし、自分の置かれている状況に首を傾げた。
私が住んでいるワンルームの、万年床の煎餅布団ではない。
身体を包み込んでいるのは、シルクのように滑らかな最高級のシーツと、羽毛の重みをほとんど感じさせない贅沢な掛け布団。肌に触れる生地のすべてが心地よく、日頃の残業でバキバキに凝り固まっていた背中や肩の痛みが、嘘のように消え去っていた。
「あ、お姉ちゃん。起きた?」
上から降ってきたのは、聞き覚えのある、しかしすっかり艶を帯びたハスキーボイス。
ハッとして隣を見ると、そこにはレースのついたキャミソール姿の凛がいた。
彼女はベッドのヘッドボードに背を預け、タブレット端末で何かの書類に目を通していたが、私が動いたのに気づいて、形の良い唇を優しく綻ばせた。
「り、凛ちゃん……!? っていうか、ここ……っ」
「心愛の家が持ってるセーフハウスの寝室だよ。昨日の夜、お姉ちゃん完全にキャパオーバーして気絶するみたいに寝ちゃったから、ここに運んだ。ひまり、お姉ちゃんが起きたよ」
凛が部屋のドアに向かって声をかけると、バタバタと軽い足音が近づいてきた。
「ななこちゃん、おはよーーーっ!!」
勢いよくドアが開け放たれ、エプロン姿のひまりが飛び込んできた。
彼女の手には、お洒落な木製のトレイが握られている。焼きたてのクロワッサンの香ばしい匂いと、何時間も煮込んで作った本物のコンソメスープ、マシュルームいりのオムレツ、採れたての野菜でできたサラダ、カフェオレの贅沢な香りが、一気に部屋中に広がって私の胃袋を刺激した。
「ほらほら、朝ごはん持ってきたよ! ななこちゃん、昨日あんなにお酒飲んだのに、お肌ツルツルじゃん! ウチらの愛のパワーのおかげだねっ♪」
「あ、あうぅ……(カルピスしか喉を通らない私はいずこへ)」
ひまりがベッドの縁に腰掛け、トレイを置く。
すると、私の背後から、ふわりと大きな影が覆いかぶさってきた。
薔薇の、気品のある濃厚な香りが私の髪をなでる。心愛だ。彼女は私の後ろから長い腕を伸ばし、私の小さな身体をすっぽりと胸の中に抱きすくめた。
「ななこお姉ちゃん、おはようございます。……よく眠れました?」
耳元で囁かれる、とろけるような甘い声。
背中に触れる、心愛の柔らかくて大きな体温。
私は、三十四歳の大人でありながら、完全に彼女たちの「可愛いペット」か「お姫様」のように扱われていた。
その時、私のスマホが激しく震えた。
「み、みんな、ちょっと待って……! 」
「ん? どうしたの、お姉ちゃん?」
「呼出だ。トラブルみたい、会社行かなきゃ。ああ、日曜なのに、クソ上司にまたリソースの割り振りがどうのって詰められ――」
慌てて布団を跳ね除けようとする私の肩を、右から心愛が、左から凛が、そっと、しかし抗えない力でベッドへと押し戻した。
「大丈夫ですよ、ななこお姉ちゃん。その『クソ上司』のいる会社なら、もう行かなくていいですから」
心愛が、私の前髪を優しく指先で払いながら、完璧な笑顔で言った。
「え? ええっ!?」
「凛が、お姉ちゃんの『手続き』、全部済ませてくれました」
左側で、凛がタブレットの画面を私に見せてくる。
「心愛の家の顧問弁護士を通して、お姉ちゃんの有給の未消化分と、これまでの残業代の未払い分、それからパワハラに対する慰謝料の請求を完璧に突っ込んでおいたから。呼出は、きっとその件だよ。だから行かなくていい。……魔法少女だった頃、お姉ちゃんが教えてくれた『コンプライアンス』のおかげだね」
凛が、フッと満足げに鼻を鳴らした。
「これからはね、お姉ちゃんは私たちの『専属リーダー』。私たちがこれから立ち上げる新しい新会社の代表になってもらう。お給料は20倍、福利厚生も最高に充実させて、スケジュール管理も私たちが完璧にシステム化してあげる」
ひまりが、クロワッサンを小さくちぎって、私の口元へと差し出してきた。
「ほら、お姉ちゃん、あーんして? これからは毎日、美味しいものいっぱい食べて、ウチらにいっぱい甘やかされるのが、お姉ちゃんのお仕事なんだから!」
「あ……、あーん……(サクサクしてて、すっごく美味しいです)」
完全に、餌付けされている。
10年前。柄じゃないのに、小学生魔法少女たちのリーダーに祭り上げられたと思ったら。
今度は、立派に成人した彼女たちの、人生のリーダー(囲われ者)にされてしまった。
かつて私が、彼女たちを理不尽な世界から守るために叩き込んだ「大人の世渡り術」。
彼女たちはそれを完璧にマスターし、今度は、ブラック企業で擦り切れていた私を、社会の理不尽から完璧に「救済」し、隔離するためにその力を使っていた。
「ねぇ、お姉ちゃん。もう、子供のフリもしなくていいし、社会の波に揉まれて泣く必要もないんですよ」
心愛が、私の手のひらをそっと開き、昨晩のあのダイヤモンドの指輪を、私の薬指へと滑り込ませた。
ひんやりとした金属の感触のあと、彼女たちの熱い指先が、私の手を上からぎゅっと握りしめる。
「私たちと一緒に、一生、幸せに暮らしましょうね」
窓の外から聞こえる、うららかな街のノイズ。
私は、薬指できらきらと輝く眩い光を見つめながら、これから始まるであろう、逃げ場のない、しかし恐ろしいほどに甘やかされた幸せな日々の幕開けに、今度こそ完全に降伏し、彼女たちの腕の中でとろけるように微笑むことしかできなかった。




