第14回「成人した元魔法少女たちの、クソデカ感情包囲網」
カチ、と。
バーの奥で、かすかなスイッチの音が響いた。
ジャズのベース音が静かにフェードアウトし、店内のスピーカーから音が消える。同時に、ほの暗かった間接照明がさらに絞られ、琥珀色のボトルが並ぶカウンターだけが、ぼんやりと浮かび上がった。
完全なる、密室の静寂。
聞こえるのは、ドクドクと警鐘を鳴らす自分の心臓の音と、私を左右から挟み込む彼女たちの、熱を帯びた静かな呼吸の音だけ。
空気の密度が一段と増し、薔薇とシトラスと林檎の香りが、ねっとりと私の肌にまとわりついてくる。
「ななこお姉ちゃん」
心愛が私の肩を抱く腕の力を、ぐっと強めた。
逃げようとしても、タイトスカートに包まれた私の太ももは、右からは心愛のドレスの滑らかな生地に、左からは凛のパンツスーツの上質なウールに、ぴったりと挟まれてピクリとも動かせない。
「ずっと我慢してたって言いましたよね? ……本当に、大変だったんですよ」
心愛が空いた方の手で、自身のハンドバッグから何かを取り出した。
コト、とガラスのテーブルの上に置かれたのは、小さなパステルピンクのケース。蓋が開けられると、スポットライトのような僅かな光を浴びて、小ぶりだが気品のあるダイヤモンドの指輪が、きらりと眩しく輝いた。
「え……っ、ひ、指輪……!?」
「うん。お姉ちゃんのために、三人で選んだの」
正面からひまりが身を乗り出し、私の両手をテーブルの上でがっしりと包み込んだ。
ひまりの指先は、昔のように柔らかいけれど、大人の女の力強さで私の自由を奪っている。彼女の大きな瞳が、まっすぐに私を射抜いた。
「ウチらね、魔法少女の時にお姉ちゃんに命を救われて、大人の論破術まで教わって、もうお姉ちゃん以外の人間じゃ満足できなくなっちゃったんだ。 同世代の男の子はもちろん、出会う人、声をかけてくる人、みんな子供っぽくて、じゃなかったら邪で、本当につまんないんだもん。お姉ちゃんがウチらをこうしちゃったんだから、責任、取ってくれるよね?」
「せ、責任って……! 私、ただの限界OLだし、みんなより14歳も上だし……!」
「年齢なんて、もう関係ない」
左側から、凛が私の耳元に顔を寄せた。
ハスキーな声が鼓膜を震わせる。凛の手が私のブラウスの襟元にすっと触れ、そのまま鎖骨のあたりをやんわりと指先でなぞった。ひんやりとした彼女の指先が触れた部分が、カッと熱くなる。
「私たちが二十歳になった瞬間、法律の壁も、社会的な言い訳も、全部消えた。……これを見て」
凛が胸ポケットから取り出したのは、綺麗に四つ折りにされた、見覚えのある緑色の枠線の紙。
婚姻届だ。
その証人欄には、すでに凛とひまりの署名と捺印が、恐ろしいほど綺麗な文字で済まされていた。
「これ……、だって、日本ではまだ同性同士は――」
「有給(不登校)を使ってでもリフレッシュしろ、って言ったのはお姉ちゃんですよ?」
心愛が私の頬に、自身の冷たい唇をそっと寄せた。
ちゅ、という微かな肉の擦れる音が、静かな店内にやけに生々しく響く。
「法律が私たちに追いついてないなら、追いついてる国に行って手続きすればいいだけですよ。私の実家のコネを使えば、お姉ちゃんのお仕事のキャリアも、何だって用意してあげられる。……ねぇ、ななこお姉ちゃん。出会った頃みたいに、私たちの『リーダー』になってください。私たちと人生を共にして」
怒涛の、クソデカ感情の包囲網。
指輪、婚姻届、そして底の知れない経済力と権力。
私がかつて「自分の身を守るために強く生きろ」と授けた大人の知恵が、極限まで磨き上げられた漆黒の武器となって、今や私自身を完封するために突きつけられていた。
「う、うあ……」
恥羞と、恐怖と、そして胸の奥がじんわりと甘く痺れるような、強烈な快感が脳を支配していく。
顔は完全に沸騰していた。
目の前にいるのは、圧倒的な美貌と、私への狂信的なまでの愛を隠そうともしない、ハイスペックな美女に成長した、元・魔法少女たち。
右からの薔薇の香りに、左からのシトラスの知性に、正面からの林檎の執着に、私は五感のすべてを奪われ、思考を完全に停止させられていく。
「「「拒否権は……ないよ?」」」
三人の声が、ぴったりと重なって、私の耳の奥へとしみ込んでいった。
溶けかけた氷が、カランと虚しく鳴る。
三十四歳の大人としての理性がいとも簡単に崩壊していくのを感じながら、彼女たちの放つ甘く重い熱量の中で、私は意識を手放した。




