第五話 改竄
「……ふん、腹が減って目が霞むとは。大賢者も焼きが回ったものよな」
力なく歩を進めるゼノンの前に、一際大きく、整備された噴水広場が現れた。
その中心には、夕日に照らされて神々しく輝く、純白の大理石で造られた巨大な巨像が鎮座している。
「ほう……これほど巨大な像を建てるとは。ようやく余に相応しい歓迎の品を見つけたぞ。……どれ、二百年後の民が余の勇姿をどう語り継いでいるか、確かめてやろうではないか」
ゼノンは震える膝を叱咤し、像の台座へと歩み寄る。そこには黄金のプレートに、誇らしげな碑文が刻まれていた。
【伝説の救世主:聖女ビクトリア像】
──二百年前、暗黒の魔王をたった一人で討伐し、世界に永遠の光をもたらした慈愛の聖女。彼女の振るった『聖なる祈り』こそが、我らの平和の礎である――
「…………は?」
ゼノンは、二度、三度とその文字を擦り、目を凝らして読み直した。
どこをどう探しても、「大魔法使いゼノン」の文字が見当たらない。
「ビクトリア……? ……余の、余の功績は……ど、どこへ行ったのじゃぁぁッ!!」
絶望。
空腹という生理的な苦痛を上回る、アイデンティティの崩壊だった。
自分が命を懸け、家庭菜園のトマトすら犠牲にして守った歴史は、たった二百年で「可愛い女の子の伝説」へと書き換えられていたのだ。
「解せぬ……断じて解せぬぞ! 余が魔王を焼き払ったあの瞬間、今もはっきりと覚えておる! 歴史の改竄にも程があるわッ!」
ゼノンがジャージ姿で頭を抱え、台座に縋り付いて嘆いていた、その時。
「――そうよ! その通りよ、おじいさん!!」
背後から、雷鳴のような鋭い声が響いた。
驚いて振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
気弱そうな外見とは裏腹の燃えるような瞳に、黒の長髪を揺らしている。その手には何故か……「生卵」がぎっしり詰まったパックが握りしめられている。
「よく言いました! この『ビクトリア英雄説』なんて、当時の教会が体裁を整えるために捏造したクソみたいなデッチ上げです! 真の英雄は、大賢者ゼノン・アルカディア様ただ一人! おじさん、いい筋してますね!」
「む……? お主、余のことを知っておるのか?」
「知ってるも何も、私は『ゼノン様真理教・急進派』のモニカです! 毎日、この嘘っぱちの像に抗議の生卵を叩きつけるのが日課にしてます」
言い放つや否や、モニカはプロ野球の投手のようなフォームで、黄金のプレートめがけて生卵を振りかぶった。
「食らいなさい! 歴史修正主義者の偶像めぇぇッ!!」
「ま、待て! 待つのじゃ、小娘ッ!!」
ゼノンは反射的に、モニカの手首を掴んで静止させた。
もちろん、像を汚されるのが嫌だったからではない。
「……おじいさん? なんで止めるんですか! あなたもゼノン様の無念が解るんでしょう!?」
「……落ち着け。気持ちは、痛いほど解る。だがな……」
ゼノンは、モニカが持つ生卵を、獲物を狙う鷹のような目で見つめ、喉を大きく鳴らした。
「……その、貴重な蛋白源を、石像にぶつけるなどという『勿体ない』真似は、断じて許されん。……余に、余に寄越せ」
「……え?」
救世主と信者の、運命の出会い。
それは、歴史の真実を巡る高潔な議論ではなく、一介の空腹な老人が「生卵を死守する」という、あまりにも世俗的な形で行われたのである。
「まさか、食べようっていうんですか!? ダメです! この卵は親愛なるゼノン様への……抗議という名の捧げ物なんですから!」
モニカは生卵のパックを胸元に抱え込み、不審者を見る目で後退った。無理もない。目の前にいるのは、救世の英雄の面影など微塵もない、安物のジャージに身を包んだ空腹そうなおじいさんなのだから。
「じゃから、そのゼノン様に渡せと言っておるのじゃ。目の前におるのが分からんのか」
「はぁ!? あなたみたいな小汚い老人がゼノン様なわけないでしょう! ふざけるのも大概にしてください。ゼノン様はもっと、こう……神々しくて、一瞥しただけでひれ伏すような覇気があるんです。あなたはただの、覇気のない空腹老人です!」
モニカの言葉は、どの魔王の呪文よりも深くゼノンの胸に突き刺さった。
だが、今のゼノンには言い返す気力も残っていない。ぐぅ、と胃袋が派手な悲鳴を上げ、視界がチカチカと点滅し始める。
「……もうよい、理屈はどうでもいい……。とにかくその蛋白源を寄越せ。さもなくば、余はここで『伝説の孤独死』を遂げることになる……」
「わっ、分かりましたよ! そんな顔しないでください! 一個、一個だけですからね!」
モニカが渋々差し出した一個の卵。それを弱々しく受け取ると、ゼノンの瞳にわずかながらの「賢者」の光が宿った。
「見ておれ。これが……『本物』の魔法じゃ」
ゼノンが指先を宙に踊らせる。
その瞬間、周囲の空気がわずかに震えた。空気中の水分が急速に凝縮され、ゼノンの掌の上で完璧な球体を成す「水塊」が現れる。
「……え? 詠唱も、魔法触媒もなしに……?」
モニカが息を呑むのも構わず、ゼノンは空いた左手をかざした。
魔法回路が激しく明滅し、指先からパチパチと青白い火花が散る。次の瞬間、空中の水球がボコボコと沸騰を始めた。超高密度の熱量を一点に集中させる、神業のような魔力制御。
ゼノンは沸き立つ熱湯の中へ生卵を投入した。
「火加減は強火……三十二秒。これが、もっとも余の好む半熟具合となる……」
数分後。
ジャージの裾で熱々の殻を剥き、ゼノンは黄金色の半熟卵を口へと放り込んだ。
「……ふむッ! ……美味い。二百年ぶりの滋味、五臓六腑に染み渡るとはこのことか……!」
剥き出しの「神秘」をゆで卵作成のために使い切ったゼノンは、幸せそうに頬を緩める。
一方、それを目の当たりにしたモニカは、持っていた卵のパックを地面に落としそうになっていた。
「……うそ。今の、生活魔法なんかじゃない。座標固定、温度管理、分子振動の強制加速……全部、失われた『古代魔導』の構成手順……」
モニカの瞳に、疑念から確信、そして狂信的な熱が宿り始める。
目の前のゆで卵を貪るおじいさんが、本当に自分の「神」かもしれないという可能性に、彼女の心臓は激しく波打った。




