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第一話 予言

「トマトちゃーん、収穫の時間よぉーん」


 鮮やかな緑の広がる庭に、鼻歌が転げ回る。

 その声は、かつての猛々しい重低音から牙が抜け落ち、丸く優しい響きを帯びている。

 旋律に呼応するように風に靡く作物が、世界の平和を象徴していた。


「美味しそうでちゅねぇ」


 孫を愛でるような甘ったるい声。

 魔王の討伐から月日が流れ、ゼノン・アルカディアは、陽だまりの中で微睡むような穏やかな老人――もとい、好々爺のそれへと変貌を遂げていた。


 手のひらで眠る真っ赤な果肉に満足げな笑みを落とし、壊れ物を扱う手つきで籠にしまう。

 かつて万象の理を見透かし、魔族を射殺さんばかりの鋭利な光を宿していた双眸は、今や目尻が深く下がっている。

 

 食べ頃のものを数個見繕うと、腰を軽く叩きながら家へと戻っていく。

 

 辿り着いたのは、神秘への入り口の前。

 重厚な扉を前にしても、枯れ木のような手で触れる必要すらなかった。

 いにしえの魔法回路は主の気配を鋭く検知すると、恭しく軋む音を立て、招き入れるように自ら口を開いたのである。


「おかえりなさいませ、ゼノン様」

 

 無機質な音が彼を出迎える。

 足元で円盤状の鉄塊が、シュルシュルと奇妙な駆動音を立てていた。「自動魔力収集装置」通称「ノンちゃん」である。

 かつてゼノンが、研究室に溜まる魔力の塵を片付けるのが面倒で、禁忌の術式を転用してまで作り上げた最高傑作だ。

 

「ああ、ノンちゃん。余がいない間も、しっかり掃除はできていたようだな」

 

 ゼノンが細まった目をさらに細めて労うと、ノンちゃんは誇らしげにくるりとその場で一回転した。

 この時代、魔法と言えば戦うか守るかの二択だったが、ゼノンは持ち前の「面倒くさがり」を発動させ、家事の自動化にその強大すぎる魔力を注ぎ込んでいたのである。

 

「よしよし、お駄賃だ」

 

 ゼノンが枯れ木のような指先でノンちゃんの天板に触れると、パチリと青白い魔力が火花を散らす。ノンちゃんは満足げな電子音を鳴らし、再び床の微細な塵を求めて、音もなく滑るように廊下へと消えていった。

 

「……さて。ノンちゃんに負けぬよう、余も日課をこなすとしよう」

 

 ゼノンは愛着のある相棒の背中を見送り、書斎へと歩みを進めた。

 

 かつて西の古代龍を討ち取った際の戦利品であり、膨大な魔力の凝縮された水晶玉。その向かいに、彼は儀式を執り行うかのように重々しく腰を下ろした。

 

「万象を映す玻璃はりの眼よ。あまねく世界に散りし言の葉を拾い、真理の導をここに示せ──」

 

 指先が水晶に触れると、澱んでいた魔力が一気に活性化し、まばゆい燐光を放ち始める。

 

「――『明鏡止水エゴサーチ』!」

 

 術式の起動とともに、水晶の表面には世界中の「声」が光の文字となって溢れ出した。それはかつての英雄に対する、時を越えた純粋な称賛の奔流である。

 

『……信じられん、ゼノン様はたった一撃で山を消し飛ばしたというのか?』

『伝説の魔導王、その気高き背中に我らは誓おう……』

『昨日の歴史の授業、ゼノン様の章で泣いちゃった。かっこよすぎる……!』

 

「ほう……。ほうほう! ほーっほっほっほ!」

 

 水晶を覗き込むゼノンの顔が、見る間に締まりなく崩れていく。

 先ほどまでの荘厳な雰囲気はどこへやら、彼は文字通り「悦」に浸っていた。

 

「聞け、ノンちゃん! 今の若者の間でも、余の支持率は盤石のようだな。山を消し飛ばした件は、実際には『山脈ごと』であるが……まあ、些細な誤差というものだ。よきかな、よきかな!」

 

 かつて世界を救った大賢者は、自分を褒め称える無数の声を肴に、収穫したばかりのトマトを齧る。

 この上ない全能感。この上ない平和。

 自分が守った世界が、自分を愛してくれている。

 甘い果汁が口いっぱいに広がり、ゼノンの顔がさらにだらしなく緩みきった、その時だった。

 

「――っ!? なんじゃ、この邪悪な気配は」


 老いたはずの背筋が、一瞬で鋼のように張り詰める。

 黄金色に輝いていた水晶の光が、まるでインクを零したかのように、どろりと不気味な漆黒に染まっていく。

 

 平和に微睡んでいた書斎の空気が凍りついた。

 かつて魔王と対峙した時ですら感じなかった、底知れぬ「絶望」の波動が、水晶の奥底から這い出してきたのである。


 漆黒に染まった水晶の表面に、無数の亀裂が走った。

 そこから漏れ出したのは、かつてゼノンが根絶したはずの、あの禍々しき魔王の残滓。

 

「……なっ、これは……!?」

 

 水晶の奥底で、燃え盛る炎が渦を巻く。

 映し出されたのは、未来の姿――そこは、ゼノンが守り抜いたはずの輝かしい世界ではなかった。

 

 空は再び、あの忌まわしき血の色に染まり、かつて平和の象徴だった街並みは無慈悲な黒炎に包まれている。

 逃げ惑う人々の絶叫が、時空を越えてゼノンの耳をつんざいた。


 そこにあるのは、あまりに無力な人類の姿。

 彼らの魔法は、再誕した魔王の圧倒的な暴力の前では、まるでおもちゃの火花のように虚しく掻き消されている。


 そして、ひび割れた水晶の中から、呪詛のような声が響き渡った。

 

『――慢心せし平和の終焉。魔法は形骸化し、神秘は死に絶えた。二百年後、魔王は再び玉座に就き、この星は永遠の闇に閉ざされるであろう』

 

 バキンッ!!

 

 凄まじい衝撃と共に、古代龍の水晶が真っ二つに割れ、辺りに沈黙が降りた。

 ゼノンの手から、齧りかけのトマトが力なく転げ落ちる。

 

「……なんという、ことだ……」

 

 震える声が、静かな書斎に響く。

 彼が守ったはずの平和が、人類から「戦う術」を奪っていた。

 自分が完璧に魔王を倒してしまったせいで、後世の魔法技術は進歩を止め、ただの「便利な道具」へと成り下がってしまったのだ。

 

「余が……余という『完璧』が存在したが故に、世界は弱体化したというのか。余が……世界を滅ぼすのか!?」

 

 その事実は、魔導の頂点に立つ彼にとって、魔王の再誕以上に耐え難い屈辱であり、そしてあまりにも重い責任であった。

 

 それは未来への怒りか、あるいは、完璧に世界を救いすぎてしまった自分への憤りか。

 

 彼の背中から、先ほどまでの隠居老人のような穏やかさが霧散していく。代わりに立ち昇ったのは、かつて魔王城を震撼させた、あの苛烈で圧倒的な魔力の波動だった。

 

「二百年後、魔王が再誕する。そして、本物の魔法を知らぬ奴らは蹂躙される。……ならば、答えは一つしかないではないか」

 

 ゼノンは顔を上げ、書斎の壁一面に並ぶ、埃を被った禁忌の魔導書たちを鋭く見据えた。

 絶望の予言を書き換える。神が定めた運命を、自らの杖で叩き折る。

 大魔法使いゼノン・アルカディアにとって、それは二百年前に既にやり遂げたはずの、単なる「業務」の再開に過ぎない。

 

「ノンちゃん! 掃除は後だ。余の着替えと、最高級の羊皮紙を用意せよ!」


 彼はガタリと椅子を蹴り飛ばし、若者のような力強さで立ち上がった。

 その瞳には、老いを感じさせぬ黄金の光が再燃している。

 

「こうしちゃおれん! 余が自ら二百年後へ出向き、腑抜けた未来の奴らに『本物の魔法』というものを叩き込んでやるわ!」

 

 一人の老人の、身勝手な、しかしあまりにも頼もしい決意。

 

 それが、後に世界を震撼させることになる、最強の「生きた化石再臨」への第一歩であった。

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