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プロローグ

プロローグ

 一文字の詠唱に命を懸け、一滴の魔力に魂を削り、泥を啜りながら神秘を求めた時代の話。

 

 今となっては昔のことだが、空は血の色をしていたという。

 

 平和に微睡む世界を無慈悲に切り裂いた、一筋の漆黒。

 

 猛威を振るう魔の軍勢を前に人類に残された道──それは、滅亡を待つこと。ただ、それだけであった。


 世界が諦めに膝をつく中、たった一人、鼻で笑う男がいた。


 名をゼノン・アルカディア。


***


「──悪趣味だな」


 雷鳴が哭く曇天の下、薄汚れた外壁を見上げ、ひとりごちる。

 魔王城。陽だまりの世界に落ちた、逃れられぬ影の根城。

 

 白銀の長髪を靡かせていた夜風が鎮まる。息を呑むほどの静寂が城内を支配していた。

 ゼノンは臆することなく、歩みを進める。

 「英雄」の名に相応しい深淵よりもなお深い藍色のローブが歩調に合わせて揺らめく。

 若々しくもどこか冷徹な光を宿すその瞳は、眼前に広がる禍々しい光景を、片付け忘れたゴミでも見るように捉えていた。


 重厚な扉が自ずと左右に開き、冷気が肌を刺す。

 その最奥。禍々しい魔力を放つ玉座に腰掛け、魔界の王が嘲笑を浮かべていた。


「ようやく来たか、大魔法使いゼノンよ。だが遅すぎた。この世界は既に我が──」

「余の時間を奪うな。下劣な魔族風情が」


 魔王の言葉を無慈悲に遮る。凛、と。世界が時間さえ忘れて拍動を止めた。


「貴様の長広舌になど興味ない──最初から全力で行かせてもらう」

「ふっ、面白い。ならば死をもって後悔せよ!」


 空間を抉るが如く剛腕を振るう魔王。その軌道をなぞるように、幾重もの魔法陣が展開された。

 漆黒の陣が脈動し、凝縮された破壊の衝動が解き放たれる。

 放たれたのは、光さえも飲み込む苛烈な闇の火球。それが一条の彗星となって、ゼノンの存在ごと空間を焼き尽くさんと迫る。

 

 だが、眉一つ動かしはしない。

 

 くうに向けて無造作に右手を掲げ、傲然と告げた。

 

「──来たれ、白檀びゃくだんの咆哮」

 

 その言葉に応じ、虚空を割って一本の杖が姿を現した。

 純白の木肌に、古の神代文字が刻まれた魔導杖。それが手に収まった瞬間、彼の魔力は爆発的に膨れ上がり、周囲の空気が重低音を鳴らして震え始めた。

 

 迫りくる闇の火球。衝突の寸前、ゼノンは地を蹴ることもなく、まるで重力そのものを手懐けているかのように滑らかな動きでその直撃を回避した。

 背後で爆音と共に城壁が消し飛ぶが、彼は振り返りさえしない。

 

 掲げられた杖が、鋭い燐光を放ち始める。

 唇が、静かに、しかし力強く詩を紡ぎ出した。

 

ことわりの果て、九天の彼方より来れ──」

 

 最初の一節。

 ただそれだけで、魔王城を揺らしていた雷鳴が止んだ。

 世界が、彼の紡ぐ次の言葉を待つために、息を潜めたかのような静寂。

 

ときを穿ち、星を呑み込む無慈悲なる暗黒の胎動よ」

 

 一文字ごとに、足元の魔法陣が幾重にも重なり、拡大していく。

 現代の魔導士が見れば発狂しかねないほどに緻密で、あまりにも長大な──真理の探求者のみが許された、神罰の儀式が始まった。

 

 不遜に歪んでいた魔王の唇が、戦慄に引き攣った。

 本能が告げている。目の前の男が紡ぐ言の葉は、魔法などという生易しいものではない。それは、世界そのものを書き換える「断罪」の宣告だと。

 

「おのれ……墜ちろ、人の子!」

 

 魔王の焦燥に呼応し、闇の猛攻は苛烈さを極めた。空間を埋め尽くすほどの黒炎の雨が降り注ぎ、玉座の間を地獄の業火が埋め尽くす。

 

 だが、ゼノンは立ち止まらない。

 

 燃え盛る爆炎の中を、ただ独り、真理を歌うように歩み続ける。

 

「余の血を糧に、余の魂を薪とし、万象を灰燼へと帰す静寂をここに。――吹き荒べ。焼き尽くせ」

 

 ついに、最後の音節が放たれた。

 爆発的な魔圧がゼノンの背後に「光の翼」を描き出す。彼は重力の鎖を千切り捨てるように、一気に上空へと跳ね上がった。

 天を衝くほどに巨大化した魔法陣の中心で、ゼノンが魔導杖を振り下ろす。

 

 それは、夜を終わらせるための、残酷なまでの輝き。

 

「すべては虚無より始まり、今また虚無へと還るべし──『終焉を告げる虚無の劫火』」

 

 視界が白一色に塗り潰された。

 音すらも置き去りにした純粋な破壊の奔流が、魔王の絶叫も、禍々しき城の威容も、すべてを無慈悲な静寂の中へと飲み込んでいった。


 轟音が止み、巻き上がった塵がゆっくりと地へと還っていく。

 かつて絶望の象徴だった魔王城は跡形もなく消え去り、そこにはただ、広大なクレーターだけが残されていた。

 中心に降り立ったゼノンの足元で、魔界の王だった「何か」が、微かな風に吹かれて灰となり、崩れ落ちる。

 

 その瞬間だった。

 分厚い鉛色の雲が裂け、天から一筋の、黄金色の陽光が差し込んだ。

 血の色に染まっていた空は、まるで悪夢から目覚めたかのように、透き通るような紺青へと塗り替えられていく。

 

 ゼノンは杖を傍らに立て、溢れる光を全身に浴びながら、静かに目を閉じた。

 遠くからは、生き残った人々が奇跡を確信したかのような、地鳴りのような歓声が聞こえてくる。

 

「……終わったな」

 

 呟いたその言葉は、誰に届くこともなく風に溶けた。

 破壊の王は去り、神秘の時代は守られた。


 大魔法使いゼノン・アルカディア。

 その伝説の第一章は、人類の涙と、最高純度の祝福と共に幕を閉じた。

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