第九十五話「包囲網の輪」
玉は帰蝶の部屋で筆を持ったまま、長く動けずにいた。
越後の龍――上杉謙信。
その名が出た瞬間から、胸の奥がざわついている。
(信長包囲網……)
言葉だけは知っている。
教科書で読んだ。確かに読んだ。
だが、細部が曖昧だった。
誰が、どこで、どう動き、
何が決定打になったのか。
思い出せない。
玉は自分の記憶が信用できなくなるのを感じた。
(上杉謙信……毛利……)
(本願寺……)
(秀吉が毛利を攻めてたのは覚えてる)
だが、上杉と織田が決戦した記憶が薄い。
それが逆に恐ろしい。
戦というのは、決戦だけが戦ではない。
見えぬ圧が、国を削る。
包囲網とは
その“圧”を同時に浴びせる仕組みだったはず。
玉は小さく息を吐いた。
(今、始まったのかもしれない)
岐阜城の広間では、信長が家臣を招集していた。
光秀が戻ったという報せが入った瞬間、信長はすぐに察した。
京が動いた。越後が動いた。
信長の命令は速い。
「評定だ。全員集めよ」
家臣たちが集まる。
柴田勝家。丹羽長秀。滝川一益。
そして羽柴秀吉。明智光秀。織田信忠。
重い空気が広間に満ちた。
信長は座したまま、言葉だけを落とした。
「越後が動く」
誰も驚かなかった。
驚けるほど状況が軽くない。
信長は光秀を見た。
「申せ」
光秀は深く頭を下げた。
「五摂家が越後へ書状を送ったとの報せが入りました」
信忠の目が鋭くなる。
「……朝廷が上杉を頼ったのか」
光秀は頷く。
「追い詰められれば、京は外へ手を伸ばします。
武家を止めるには、武家を呼ぶしかない」
信長は笑わない。
ただ冷たく言った。
「京が火を求めたということだ」
その一言で、すべてが決まった。
信長は家臣たちを見回した。
「包囲網が形を取り始める」
その言葉に、広間の空気がさらに重くなる。
柴田勝家が口を開く。
「上杉が北を動けば、北陸が危ううございます」
信長は即答した。
「北はお前が抑えよ、勝家」
勝家は力強く頷いた。
「ははっ」
信長は次に秀吉を見る。
「秀吉」
秀吉は即座に膝を進めた。
「はっ」
「西は毛利が動く。
本願寺もまだ息をしている。
お前は西を抑えよ」
秀吉は顔を上げる。
「承知いたしました。
毛利を押さえ込み、道を開いてみせます」
信長は淡々と頷き、さらに続けた。
「丹波、山陰はまだ火が残る。
国衆どもが調子に乗れば、背を刺される」
「油断するな」
秀吉は深く頭を下げた。
信長の視線が光秀に移る。
「光秀」
「ははっ」
「京はお前が抑えよ」
その言葉は命令だった。
しかしそれ以上に、重い鎖だった。
光秀の背筋が張る。
「京の金の流れを改める。
朝廷は滅ぼさぬが、勝手は許さぬ」
「その言葉を、京に刻め」
光秀は深く頭を下げた。
「……御意」
信忠は光秀の背を見つめていた。
(光秀殿は、京に縛られる)
(そして京は、光秀殿を盾にする)
信忠の拳が僅かに握られた。
信長は立ち上がった。
「各々、持ち場へ戻れ。
今は一瞬の遅れが、国を失う」
その声に、家臣たちが一斉に頭を下げる。
「ははっ!」
広間の扉が開き、家臣たちは散っていく。
戦が始まった。
刀を交える前に、国が削られる戦だ。
評定が終わった後。
信忠は廊下で光秀に声をかけた。
「光秀殿」
光秀は振り返り、深く礼をする。
「信忠様」
信忠は言葉を探すように、少し間を置いた。
「……無理をするな」
光秀は目を伏せた。
「務めにございます」
信忠は強く言った。
「務めで倒れられては困る。
父上は、倒れる者を助けぬ」
光秀の表情が僅かに揺れた。
だがすぐに、戦場の顔に戻る。
「承知しております」
信忠はそれ以上言えなかった。
この国では、忠義が命より重い。
その理を、信忠自身も背負っている。
その夜。
玉は帰蝶の部屋に呼ばれた。
帰蝶は静かに言った。
「殿が動いたわ。
北を柴田、西を秀吉、京を光秀に」
玉は息を呑んだ。
やはり。
(父上が……京の鎖に繋がれた)
帰蝶は続けた。
「京を締めれば、京はさらに抵抗する。
抵抗すれば、上杉が動く。
上杉が動けば、殿はさらに締める」
玉の胸が苦しくなる。
終わらない。
締め付けが、さらに締め付けを呼ぶ。
玉は震える声で言った。
「……これが包囲網というものなのですね」
帰蝶は玉を見つめた。
「そうよ。
敵が一つなら、殿は潰す。
だが敵が同時に動けば、国が裂ける」
玉は唇を噛んだ。
教科書で読んだ言葉が、現実の匂いを持って迫ってくる。
(信長包囲網)
確かに、覚えている。
上杉謙信。
毛利……毛利輝元。
本願寺。
そして、確かに秀吉は毛利と戦っていた。
玉の頭の中で、断片が繋がり始める。
だが上杉との決戦は思い出せない。
それが恐ろしい。
(決戦がないのなら……)
(これは、じわじわと削られる戦だ)
玉は帰蝶に顔を上げた。
「帰蝶様。
父は……耐えられるでしょうか」
帰蝶は一拍置き、静かに答えた。
「耐えるしかない」
その言葉が、玉の胸を刺した。
耐えるしかない。
それはつまり、助けがないという意味でもある。
玉は拳を握った。
(助けは……作るしかない)
玉は必死に考えた。
京を抑える。
朝廷を縛る。
だが縛りすぎれば、京は外へ手を伸ばす。
外へ手を伸ばせば、父が矢面に立つ。
ならば――
(京に、逃げ道を作る)
(完全に殺さず、生かしながら縛る)
(それなら、公家は上杉へ縋らない)
玉の中で、答えが形になり始めた。
帰蝶は玉の目を見て、薄く笑った。
「……考えたわね」
玉は頷いた。
「京を黙らせるには、刀ではなく文です」
帰蝶は静かに言った。
「その通り。
奥の戦は、文で勝つ」
玉の胸の奥で炎が燃えた。
父を守る。
信忠を守る。
織田を守る。
そのために、玉は学ばねばならない。
玉は深く頭を下げた。
「帰蝶様。
私に文を教えてください。
京が動けぬ文を」
帰蝶は頷いた。
「教えるわ」
そして帰蝶は、机の上に白紙を置いた。
「玉。
この一通が、天下を左右する」
玉は筆を取った。
その手は震えていた。
だが、震えは恐れではない。
覚悟の震えだった。
包囲網の輪が閉じ始めた。
そして玉は、その輪の内側で
文という刃を研ぎ始めていた。




