第九十四話「義の影」
光秀が岐阜へ戻ったのは、異様なほど早かった。
城門をくぐるその姿は、丹波を落とした武将の凱旋ではない。
まるで火を背負って戻った者のようだった。
信長はすでに察していた。
京で何かが動いた。
広間に通された光秀を見て、信長は余計な挨拶を省いた。
「申せ」
光秀は深く頭を下げ、文を差し出した。
「京にて五摂家と会談いたしました」
信長は文を受け取らず、光秀の顔を見据えた。
「それで」
光秀は一拍置き、言葉を選ぶ。
「……五摂家が、越後へ書状を送ったとの報せが入りました」
その瞬間、広間の空気が変わった。
信忠の眉が動く。
「越後……?」
光秀は言った。
「上杉謙信にございます」
越後の龍。
その名が出た途端、信長の目が鋭く細まった。
信長は笑わなかった。
怒りも見せなかった。
ただ、静かに息を吐いた。
「……京が外へ手を伸ばしたか」
光秀は頷いた。
「追い詰められれば、必ずそうなります」
信長は立ち上がり、間髪入れず命じた。
「者どもを呼べ。評定だ」
信忠が一歩進み出る。
「父上、すぐに?」
信長は即答した。
「すぐにだ。
越後が動けば、こちらも動かねばならぬ」
そして信長は光秀を見た。
「光秀。お前は京の動きを引き続き探れ。
京が誰と繋がろうとしているか、徹底して洗え」
光秀は深く頭を下げた。
「ははっ」
信忠は黙っていた。
だが胸の奥で、嫌な予感が膨らんでいた。
(京が外へ手を伸ばした)
(上杉謙信が動く)
それはつまり――
織田包囲網の形が、再び整い始めたということだ。
その夜。
玉は帰蝶の部屋で文を学んでいた。
そこへ侍女が駆け込み、声を潜めた。
「奥方様、明智殿が戻られました。
殿が評定を開かれます」
帰蝶の表情が僅かに硬くなる。
玉はその空気で理解した。
(……京が動いた)
帰蝶は淡々と告げる。
「玉、耳を澄ませなさい。
今から起きることは、奥の政治そのものよ」
玉は息を呑んだ。
ほどなくして、別の報せが入る。
「越後の龍――上杉謙信の名が出ました」
玉の胸が跳ねた。
(越後の龍……)
その名は知っている。
玉はふと、教科書の記憶が脳裏をよぎった。
遠い未来の知識などではない。
ただ学んだ歴史の断片。
(織田包囲網……)
毛利、本願寺、そして上杉。
信長を囲み、押し潰そうとする連合。
玉は喉が乾くのを感じた。
(まさか……)
(ここで、あの流れに入るのか)
玉の背筋が冷えた。
帰蝶は玉の表情を見て、静かに言った。
「玉。
これが、京が最も恐れていることよ」
「信長を止めるために、武を呼ぶ」
玉は小さく頷いた。
(父上が、板挟みになる)
(京の矛先が父上に向く)
(そして殿は……さらに締める)
玉の胸の奥で、嫌な炎が再び燃え上がる。
数日後。
越後。
雪深い国の空は、重く沈んでいた。
春日山城。
上杉謙信のもとへ、一通の書状が届く。
封は丁寧で、紙は上質。
香が焚き染められている。
使者が恭しく言った。
「京より……五摂家連名にございます」
謙信は文を受け取り、無言で封を切った。
その目は鋭い。
だが怒りではない。
読むほどに、謙信の顔から余計な感情が消えていく。
そこに書かれていたのは、ただ一つ。
――朝廷が危うい。
――織田信長が財を握り、朝廷を縛ろうとしている。
――このままでは朝廷の威が潰える。
謙信は文を読み終えると、静かに目を閉じた。
家臣たちは固唾を呑んで待った。
謙信はゆっくりと口を開いた。
「……朝廷が飾りになれば、天下は乱れる」
その声には迷いがない。
「信長が朝廷を滅ぼす気はなくとも、
縛り上げれば、朝廷は死ぬ」
家臣の一人が言った。
「殿、京の者どもは己のために申しておるやもしれませぬ」
謙信は即答した。
「己のためであろうと、朝廷は天下の柱だ」
その言葉に、家臣たちは息を呑んだ。
義の人と呼ばれる所以が、そこにあった。
謙信は立ち上がり、命じた。
「者どもを集めよ。評定だ」
「出陣の支度を始める」
家臣たちの顔が引き締まる。
「いよいよ、織田と相まみえるのですな」
謙信はただ短く言った。
「義があるなら、動かねばならぬ」
春日山の空に、冷たい風が吹いた。
その風は越後だけで止まらない。
京へ。岐阜へ。天下へ。
静かに、確実に――戦の匂いを運び始めていた。




