第九十二話「鳥肌の宣言」
帰蝶の部屋。
香が焚かれ、静かな空気が満ちていた。
その静けさが、かえって玉の胸を締め付ける。
帰蝶はいつも通り落ち着いた声で言った。
「玉。京から五摂家連名の書状が光秀に届いたそうよ」
その瞬間、玉の身体がじわりと熱くなるのを感じた。
(……五摂家)
それは朝廷の中心。
公家の頂点。
つまり――朝廷が、直接動いた。
玉は喉の奥が乾くのを覚えた。
(危険だ)
危険という言葉では足りない。
これは“引き金”だ。
光秀が朝廷と織田の間に立たされる。
しかも、信長自らその立場に置く。
その結果がどうなるか、玉は嫌というほど知っている。
(父上が壊れる……)
玉は息を吸った。
帰蝶は淡々と続けた。
「殿は仰ったわ。
朝廷は滅ぼさぬが、勝手は許さない、と」
玉の背中に鳥肌が立った。
その言葉は優しさではない。
宣言でもない。
――支配の言葉だ。
玉の脳裏に、本能寺がよぎる。
炎。
黒煙。
逃げ場のない夜。
(やめて……)
胸の奥がざわつき、鼓動が速くなる。
玉は必死に思考を巡らせた。
朝廷は金を守るために動いた。
織田は金を握るために動く。
その間に置かれるのが光秀。
信長にとって光秀は便利だ。
礼を知り、京を知り、戦もできる。
だが便利な者ほど、最後に壊れる。
玉は耐えきれず口を開いた。
「帰蝶様……父の立場は理解できます」
帰蝶は黙って聞いている。
玉は続けた。
「ですが、朝廷と織田の間に立たされれば、父は必ず精神的に追い込まれます。
礼を欠けば朝廷が敵になり、
朝廷を立てれば織田が疑います」
玉の声は震えていた。
「……任されれば任されるほど、父は疲弊します。
政務も軍も、すべてが重なります」
帰蝶の目が細くなる。
玉は言葉を止めなかった。
「さらに、父が京の顔として動けば、
一部の家臣から不満が出ます。
『なぜ明智だけが』と……」
玉は拳を握った。
「殿のご命令とはいえ、父の身体が持ちません。
父が倒れれば、明智が崩れます。
明智が崩れれば――織田も揺れます」
玉は帰蝶を見つめた。
「今の状況は……危ういです」
帰蝶はしばらく沈黙した。
そして、静かに言った。
「玉。あなたの言うことは正しいわ」
玉の目がわずかに開く。
だが次の言葉が、玉の希望を断った。
「けれどこれは――殿の意向よ」
その一言が、重かった。
帰蝶は続けた。
「殿は光秀を疑っているわけではない。
ただ、京を縛るには光秀が最も適している。
だから使う」
玉は唇を噛んだ。
(使う……)
帰蝶の声は淡々としている。
「殿は、朝廷を滅ぼす気はない。
朝廷があるから天下が整う。
けれど朝廷が自由に金を動かせば、必ず火種になる」
「だから金を握り、首輪をつける。
その鎖の先に光秀を置くの」
玉は震える息を吐いた。
(鎖……)
まるで父が道具のように扱われている。
帰蝶は玉の表情を見て、少しだけ柔らかく言った。
「玉。あなたが恐れているのは、光秀が壊れることね」
玉は小さく頷いた。
「……はい」
帰蝶は静かに言った。
「壊れない者などいない。
殿のそばに立つ者は皆、削られる」
その言葉は慰めではなく、現実だった。
玉は声を絞り出した。
「……それでも、父は」
帰蝶は遮らずに聞いた。
玉は胸の奥の恐怖を吐き出すように言った。
「父は、真面目すぎます。
殿のために動き、朝廷のために礼を尽くし、
そのどちらにも嘘がつけません」
「だから……最後に潰れます」
玉の脳裏に、また本能寺が浮かぶ。
玉は俯き、呟くように言った。
「……最も避けたい事態です」
帰蝶は立ち上がり、玉の側に寄った。
そして静かに言った。
「玉。あなたが今すべきことは、父を救う策を考えること」
玉は顔を上げた。
帰蝶は続ける。
「殿の意向を変えることは難しい。
ならば、光秀が壊れない道を作るしかない」
玉の胸が痛む。
(父上を救う道……)
帰蝶は玉を見つめた。
「あなたは奥にいる。
でも奥は、文で戦を変えられる」
玉は小さく息を吸った。
(文で……)
帰蝶は最後に言った。
「光秀を守りたいなら、京を読め。
公家の腹を読め。
そして殿の次の手を読め」
玉は深く頷いた。
「……はい」
だが心の奥では、炎が消えなかった。
(本能寺に繋げない)
玉はその誓いを、もう一度胸に刻んだ。




