第八十八話「焙烙の夜」
丹波の夜は、闇が深い。
だがその闇を
火が裂いた。
山の稜線を越え、三人一組の影が滑るように城へ近づく。
声はない。足音もない。
ただ、息を殺した獣のような気配だけがあった。
城下は静かだった。
国衆は引きこもり、門を固め、火を焚き、夜襲を恐れている。
その恐れが、逆に隙を作る。
城兵の目は外に向く。
闇に向く。
しかし“内側”が疎かになる。
光秀は丘の上から城を見下ろし、低く命じた。
「……焙烙玉」
合図ひとつ。
闇の中から、火のついた小さな玉が投げ込まれる。
――ぼっ。
一つ、二つ、三つ。
そして次の瞬間。
ぼうっ!!
火が上がった。
屋根が燃え、油が爆ぜ、乾いた木が一気に炎を呼び込む。
丹波の城は木と土でできている。燃えれば早い。
「火だ!!」
「消せ!!」
叫びが響く。
だが叫び声が上がった時点で、城はもう負けていた。
混乱した兵が走り回る。
水桶が倒れ、梯子が崩れ、指揮が飛ぶ。
そこへ
闇から短い矢が飛んだ。
シュッ。
「ぐっ……!」
火の明かりに照らされた城兵の喉を、正確に貫く。
逃げる者を狙い、火を消そうとする者を狙い、隊長格を狙う。
クロスボウの矢は、音が少なく、速い。
闇から飛び、闇へ消える。
「どこだ!?」
「敵が見えぬ!」
兵は火を見、闇を見、そして恐怖を見る。
光秀は冷静だった。
攻め急がない。
突入しない。
「……焦らせよ」
火と矢で削る。
逃げ道を塞ぐ。
城の中の恐怖を膨らませる。
そして
城の一角が崩れた。
炎が土塀の内側へ回り、
煙が門の裏へ入り込み、
兵が咳き込み、目を潤ませ、足を止めた。
そこへ、明智勢が一気に踏み込む。
「押せ!」
「退くな!」
短い時間だった。
戦というより、処理だった。
夜明け前。
城門が開き、白旗が上がった。
降る者、意地を張る者
翌朝、丹波の国衆は震えた。
「落ちた……」
「一夜で、城が……」
「夜に火が降り、矢が飛ぶ……」
噂は誇張され、恐怖は増幅した。
「明智は人ではない」
「闇そのものだ」
ある国衆は、震える手で使者を出した。
「降ります。命だけは……」
光秀は使者を迎え、淡々と答えた。
「よい。兵を引け。城を明け渡せ」
降った者は救われる。
それが明智のやり方だった。
しかし、全てがそうではない。
別の国衆は歯を食いしばり、門を閉ざした。
「たかが一つ落としただけだ!」
「山を知るのは我らだ!」
「意地でも明智には屈せぬ!」
降る者。
張る者。
丹波は割れた。
そして割れたことで、丹波はさらに弱くなる。
援軍は出せない。
連携もできない。
疑心暗鬼が、山より深く広がる。
光秀は地図を広げ、指で城をなぞった。
「一つ落としたからといって、油断はせぬ」
利三が頷く。
「殿、次はどこへ」
光秀は静かに言った。
「周りから順番に落とす。
本丸に近づくほど、相手は必死になる」
利三が言う。
「敵も、意地を張る国衆は増えるでしょう」
光秀は冷たく答えた。
「意地を張る者ほど、折れた時に早い」
そして光秀は焙烙玉を見た。
火は、武よりも恐怖を生む。
恐怖は、刃よりも兵を殺す。
光秀は命じた。
「降る者には道を残せ。
張る者には、夜を与えよ」
利三は背筋を正す。
「ははっ!」
混乱する丹波
丹波の村では、夜になると戸を閉めた。
犬は吠え、赤子は泣き、老人は震えた。
山の向こうから火が見えるたび、誰かが呟く。
「まただ……」
「明智が来る……」
噂は噂を呼び、
恐怖は恐怖を生む。
国衆は互いを疑い始めた。
「あの城は、内通したのではないか」
「明智に文を送った者がいる」
「誰が裏切った?」
疑いが増えれば、団結は崩れる。
そして光秀は、それを見逃さなかった。
戦を急がず、確実に削る。
山道を押さえ、糧道を断ち、
城を孤立させ、降伏を促す。
丹波は、少しずつ息が詰まっていった。
いよいよ本丸を残すのみ
いくつかの城が落ちた。
降る国衆は増え、
意地を張る国衆は減った。
残るのは、ただ一つ。
丹波の“本丸”。
そこに籠る者は、もう後がない。
だからこそ、最も危険で、最も頑強だった。
光秀は夜の稜線に立ち、城を見下ろした。
火の光が、遠くで揺れている。
利三が言った。
「殿……いよいよですな」
光秀は頷いた。
「……ここを落とせば、丹波は終わる」
だが光秀の顔には、勝利の色はなかった。
油断すれば死ぬ。
ここからが、本当の戦。
光秀は低く呟いた。
「玉の策は効いた。
だが――この先は、策だけでは足りぬ」
闇が深くなる。
丹波の最後の城が、沈黙している。
その沈黙は、獣の息遣いのようだった。
光秀は手を上げた。
「準備を整えよ。
次の夜で決める」
明智の軍勢が動く。
丹波は、最後の夜を迎えようとしていた。




