第八十七話「夜に出る明智」
丹波の山は、昼より夜が深い。
霧が下り、谷は音を呑み、木々は風すら隠す。
その闇の中を、明智の兵は三人一組で滑るように進んだ。
灯りはない。
声もない。
あるのは合図だけ。
鳥の声。
石を打つ音。
枝を折る微かな響き。
丹波の国衆が得意とした伏兵は、次第に意味を失っていった。
罠を仕掛けたはずの道に、敵が現れない。
いや、現れたと思った瞬間―
闇の中から矢が飛ぶ。
短く、速く、確実に。
呻き声が上がるより先に、首が落ちる。
引きずる音もなく、死体が消える。
翌朝、見つかるのは血と、折れた矢だけ。
「……夜に明智が出る」
その噂が、丹波の村々を駆け抜けた。
「山の闇から、音もなく来る」
「罠を張っても意味がない」
「気づいた時には、隣が死んでいる」
国衆の若者は夜の見回りを嫌がり、
古参の兵は焚き火を増やし、
だが火を焚けば焚くほど、闇にいる明智に居場所を知らせた。
そして丹波は、引きこもった。
城門を閉じ、山道を封じ、
「出てこなければ負けぬ」とでも言うように息を潜めた。
光秀は山の稜線から城を見下ろし、静かに呟く。
「……効いたな」
利三が頷く。
「はい。国衆は怯えております。
今や夜に出る者はおりませぬ」
光秀は焚き火の前で筆を取り、岐阜へ向けて文をしたためた。
光秀の文
玉へ
お前の申した策、試した。
闇夜に紛れる術は功を奏している。
丹波の国衆は今、城に籠り、山に出てこぬ。
罠を張る者も減った。
こちらの損害も抑えられている。
よく見ている。
よく考えた。
丹波の闇は深い。
だが今は、闇が味方となっている。
光秀
岐阜城。奥。
玉はその文を受け取り、胸の奥が熱くなった。
(父上が、生きている)
それだけで救われる思いだった。
だが同時に、玉は次の段階を考える。
引きこもった敵は、恐怖で縮こまっている。
ならば――今こそ崩せる。
玉は硯に水を落とし、墨を磨った。
筆を取る指に迷いはない。
玉の返信
父上へ
ご無事の文、確かに受け取りました。
闇夜の策が功を奏し、丹波の国衆が引きこもっていると知り、胸を撫で下ろしました。
今、敵が籠り恐れているならば、
この機を逃さず各個撃破にて崩すのが良いかと存じます。
一つの城を攻めるよりも、
孤立している小勢を先に削り、
援軍も合流も許さず、
一つずつ落としていけば――
丹波は自ずと折れるはずにございます。
また、以前父上が用いられた
焙烙玉での奇襲は、籠城の敵には殊更に効くかと。
闇夜より焙烙玉を投げ込み、
混乱の中を短く扱い易いクロスボウで確実に敵を減らし、
十分に数を削ってから本丸へ突入すれば、
味方の被害は少なくなるはずにございます。
さらに、落ちかけた国衆へは
“凋落のための使者”を密かに送り、
降参の道を示せば、こちらに靡く者も出ると思われます。
ただし、父上のご判断が第一にございます。
無理をなされぬよう。
玉は岐阜より、父上のご安全を祈っておりまする。
玉
玉は文を畳み、封を閉じた。
(父上を生かすために)
それが玉の願いだった。
織田と明智を繋ぐためでもない。
信忠との約のためでもない。
ただ、父が――
闇に飲まれていく未来だけは、変えたかった。
光秀の反応
丹波の陣。
玉の文を読んだ光秀は、しばらく黙っていた。
焙烙玉。
夜襲。
各個撃破。
使者での切り崩し。
それは戦の手順として、あまりに理に適っていた。
利三が呟く。
「……姫様、軍師のようでございますな」
光秀は息を吐き、文をゆっくり折り畳んだ。
「違う」
利三が首を傾げる。
光秀は低く言った。
「これは軍師ではない。
“家を守る者の知恵”だ」
そして光秀は立ち上がった。
「焙烙玉を集めよ。
クロスボウの扱いに慣れた者を選べ」
利三の目が鋭くなる。
「いよいよ、攻めに出ますか」
光秀は頷いた。
「恐れで縮こまった相手は、今が最も脆い」
焚き火の火が揺れる。
光秀は夜の山を見た。
(玉……)
お前が奥で磨いているのは、礼ではない。
生き残るための刃だ。
その刃が、今、丹波の闇を切り裂こうとしている。
そして明智の軍は、次の夜から動き出す。
焙烙玉を抱え、闇を裂き、
火と矢で恐怖を植え付けるために。
丹波は、もう眠れない。




