第八十六話「玉の返信」
光秀から届いた文を読み終えた玉は、しばらく筆を取れずにいた。
「策は人を救うが、同時に人を殺す」
父の文字は優しく、そして重い。
(……父上は、私に“踏み込むな”と言っている)
だが同時に、玉は確信した。
父は助けを必要としている。
丹波は山。
山は、数の力が効かない。
ならば必要なのは、力ではなく“影”だ。
玉は静かに硯に水を落とし、墨を磨った。
そして、筆を走らせた。
「明智十兵衛光秀殿」
父上へ
文、確かに拝見しました。
逆茂木と落石が効いたと知り、少しだけ胸を撫で下ろしました。
しかし落とし穴が実際に用いられたと聞き、丹波の恐ろしさを思います。
そこで一つ、思案しました。
丹波のような山深き地では、昼よりも夜が有利にございます。
ただし闇夜に攻めるなら、装束の色は純粋な黒ではなく、
柿渋色(赤茶)
または
紺色
が良いかと存じます。
黒は月明かりの下では輪郭が浮きやすく、
地形に溶け込みにくいと聞き及びます。
また、短い弓では威が弱いかもしれませぬが、
以前お伝えしてあるクロスボウであるならば
取り扱いも容易で、確実に撃てるのではと考えます。
そしてもう一つ。
丹波では、大軍で一塊となって進むよりも、
三人から五人ほどの少数で動く方が良いかと存じます。
敵は罠を張り、伏兵で心理を揺さぶり、
道を読ませず混乱を狙って参ります。
ならば逆に、
「罠を仕込みそう」と思われる場所を先に見つけ利用し、
こちらが先に潜み、裏をかく。
少数部隊を幾つも山中に放ち、
罠がありそうな地を逆に利用し、
確実に仕留め、確実に退く。
これを繰り返せば、
敵は次第に恐れ、引きこもるかと存じます。
策は人を殺すと父上は仰いました。
それでも父上が生きて帰るための策ならば、
私は書かずにはいられませぬ。
役に立つかは分かりません。
ただ、丹波で父上が倒れる未来だけは
決して見たくないのです。
玉
玉は筆を置いた。
(これでいい)
奥にいながら、娘ができることは少ない。
だが、少ないからこそ、言葉は研ぎ澄まされる。
玉は封を閉じ、深く息を吐いた。
光秀の反応
丹波の陣。
光秀は玉の文を開き、最初の一行で眉を上げた。
「……柿渋色、紺色……?」
利三が覗き込む。
「忍びの装束の色、でございますか?」
光秀は黙って読み進めた。
少数部隊。
闇夜。
罠を逆に利用。
心理を折る。
クロスボウ。
読み終えた光秀は、しばらく動かなかった。
(これは……)
奇策ではない。
戦を知る者の発想だ。
利三が問う。
「殿、いかがでしょう」
光秀は静かに言った。
「……試す価値はある」
利三の目が光る。
「では、すぐに?」
光秀は頷いた。
「三人一組。
闇夜の移動と潜伏、撤退の訓練を徹底する」
利三が即座に命じる。
「ははっ!」
光秀は文を折り畳み、懐へしまった。
焚き火の火が揺れる。
「玉……お前は奥にいて、戦を変える気か」
その声には、怒りではなく、驚きと誇りが滲んでいた。
そして同時に、恐ろしさも。
(この子は、ただの姫では終わらぬ)
光秀は立ち上がり、夜の闇を見た。
「丹波は闇が深い。
ならば――闇を味方につける」
その日から明智勢は、
三人一組での調練を繰り返すようになる。
山中の夜。
音を殺し、足跡を消し、息を潜める。
罠を見つけ、逆に利用する。
火を焚かず、合図は鳥の声。
そして短く扱いやすい武器で、確実に仕留めて退く。
兵たちは最初、戸惑った。
だが光秀は言い切った。
「丹波では、武では勝てぬ。
勝つのは“恐れを植えた者”だ」
兵たちの目が変わった。
闇夜の中、明智の軍は少しずつ形を変える。
まるで忍びのように。
その変化の始まりが、
岐阜城の奥から届いた――玉の一通だった。




