第八十五話「玉の文」
丹波へ向かう陣中。
夜の帳が落ち、焚き火の火だけが揺れていた。
光秀は軍議を終え、帳の奥で静かに座していた。
疲れは顔に出さぬが、目の奥には重い影がある。
そこへ使者が来た。
「明智殿。岐阜より文にございます」
光秀は一瞬、手を止めた。
岐阜。
そして――玉。
封を切る指が僅かに遅れる。
胸のどこかで、嫌な予感と期待が混じった。
開けば、短い文。
だが内容は、想像より遥かに“戦”だった。
「父上へ
丹波は山深き地と聞きました。
攻める側が不利になりやすいゆえ、念のため。
山中で用いられる策として
落とし穴
丸太落とし
落石
逆茂木
偽の道案内
橋落とし・崖崩し
竹槍の杭
火計(煙・山火事)
敵が用いるなら警戒を。
味方が用いるなら有効かと。
果たして役に立つかは分かりませぬ。
ただ、父上の役に立ちたく――
玉」
光秀は文を読み終えたまま、しばらく動かなかった。
丹波の地図よりも先に、
娘の筆が戦場に届いている。
光秀はふっと笑った。
「……奥で学ぶとは、こういうことか」
その笑みは、父としてのものだった。
だが次の瞬間、顔が戻る。
軍略としても―正しい。
「……落とし穴、逆茂木、火計」
呟いた声は、焚き火に吸われた。
側近の斎藤利三が問う。
「殿、何かございましたか」
光秀は文を折り畳み、懐へしまった。
「玉からだ。丹波での策を考えたらしい」
利三が目を丸くする。
「姫様が……戦の策を?」
光秀は短く言った。
「笑うな。
これは……軽く見てはならぬ」
利三は背筋を正した。
「ははっ」
光秀は地図を開き、指で峠をなぞった。
「丹波は山。敵は伏兵と罠を使う。
ならば、こちらも“罠を読む”戦に変える」
そして光秀は言った。
「逆茂木を準備させよ。
峠道に仕掛ける。敵の足を止めるためだ」
利三が頷く。
「承知」
光秀は焚き火を見つめた。
(玉……)
お前は、奥で学びながらも、
明智の戦を見ている。
その事実が、光秀の胸を熱くした。
同時に、怖くもなった。
(この子を、戦に巻き込みたくはない)
だが、巻き込まれるのが明智の血ならば――
止めることなどできぬ。
光秀は小さく息を吐いた。
「……よい。お前の文、受け取った」
まるで玉がそこにいるように、そう呟いた。
丹波の戦
数日後。
丹波の山道。
霧が濃く、足元はぬかるんでいる。
軍勢は列を伸ばし、谷沿いの道を進んでいた。
その時
前方で突然、叫び声が上がった。
「伏兵――!!」
矢が飛び、木々の間から国衆が現れる。
「来たか……!」
光秀は馬上で叫ぶ。
「前へ出るな!散れ!
峠へ退くな、谷へ寄るな!」
敵は山を知り尽くしている。
狙いは一本道の混乱。
だが光秀は焦らなかった。
(玉の文の通りだ)
利三が叫ぶ。
「殿!道を塞がれます!」
見れば、敵が逆茂木を押し出している。
枝を絡めた木を道に倒し、進軍を止める策。
光秀は即座に命じた。
「こちらも用意した逆茂木を出せ!
敵の退路を塞げ!」
兵が木を引き出し、道を塞ぐ。
敵の顔色が変わった。
「なに……!?」
退けぬ。
押し合いとなり、狭い道は人で詰まる。
その瞬間。
光秀は叫んだ。
「今だ、落石だ!!」
待機させていた兵が、山腹の岩を転がした。
ごう、と地鳴りのような音。
敵兵が振り返った時には遅い。
岩が道を削り、兵を押し潰し、混乱が広がった。
「ぐあっ!」
「退けぇぇ!」
霧の中、敵は味方を踏み、崩れた。
光秀は目を細めた。
(効いた)
ただし――完全勝利ではない。
敵もまた罠を用意していた。
次の瞬間、足元が崩れた。
「落とし穴だ!」
兵が数人落ち、悲鳴が上がる。
馬が暴れ、隊列が乱れる。
光秀は歯を食いしばった。
「やはり、落とし穴……!」
玉が書いた罠が、そのまま敵の手で襲いかかってきた。
だが光秀は、想定していた。
「道を替えろ!
谷沿いを避けろ、山の稜線へ回れ!」
斎藤利三が叫ぶ。
「殿、稜線は遠回りになります!」
光秀は言った。
「遠回りでもよい。
死ぬよりはましだ」
軍勢は乱れながらも立て直し、稜線へ向かった。
結果、伏兵の包囲は破れた。
その日の戦は、明智の勝ちだった。
だが光秀の胸に残ったのは、勝利の喜びよりも
丹波の恐ろしさだった。
光秀
夜。陣へ戻る。
光秀は鎧を脱がせながら、焚き火を見つめた。
利三が言った。
「殿……見事な采配でした。
逆茂木と落石が、あれほど効くとは」
光秀は頷く。
「効く。効くが……」
利三が首を傾げる。
「が?」
光秀は静かに答えた。
「丹波は、策が効く土地だ。
つまり、策が無ければ死ぬ土地でもある」
利三は息を呑んだ。
光秀は懐から玉の文を取り出した。
焚き火の光で、文字が揺れる。
「……玉の文がなければ、もっと死人が出ていた」
利三が深く頭を下げる。
「姫様が、殿を救われたのですね」
光秀は笑わなかった。
ただ、遠くを見るように呟く。
「救われたのは、この命だけではない」
もし今日、ここで崩れれば
丹波攻略は遅れ、織田の威信が揺れ、
京が動き、朝廷が動き、また別の火種が生まれる。
光秀は文を握りしめた。
「玉は……奥にいながら戦を見ている」
そしてぽつりと言った。
「賢すぎる」
利三が息を呑む。
光秀は続けた。
「賢い者ほど、戦に近づく。
戦に近づけば、血の匂いを知る」
焚き火の火がぱちりと弾けた。
光秀は決意したように、紙を広げる。
「返事を書く」
利三が筆を差し出す。
光秀は静かに書いた。
「玉へ
文、確かに受け取った。
お前の記した策、敵が用い、またこちらも用いた。
特に逆茂木と落石は効いた。
そして落とし穴は、まさしく警戒すべきものだった。
お前の文がなければ、今日の戦はもっと苦しかったろう。
よく見ている。
だが忘れるな。
策は人を救うが、同時に人を殺す。
お前は奥で学べ。
戦は父が背負う。
光秀」
書き終えた光秀は、文を畳み、封をした。
利三がそれを受け取る。
「岐阜へ急がせます」
光秀は頷いた。
そして焚き火の前で、小さく呟く。
「……玉」
(お前は、織田と明智を繋ぐだけではない)
(戦の流れすら、変え得る)
それが希望なのか、恐怖なのか。
光秀自身にも、まだ分からなかった。
ただ一つ確かなのは――
丹波はこれから、もっと深い闇を見せるということ。
そしてその闇は、
いずれ京へ、岐阜へ、
織田の中心へ伸びていく。
光秀は夜空を見上げた。




