第八話「届いた文(ふみ)」
京から文が届いた。
その事実だけで、屋敷の空気が少し変わった。
誰も大声では話さない。
廊下を歩く足音も、妙に慎重になる。
まるで、紙一枚が運んできたのが「言葉」ではなく、
火種そのものだったかのように。
私はその日、何も知らない顔で母の部屋へ行った。
花を持って。
昨日摘んだ花は、
少し萎れていたけれど、
それでも手ぶらで行くより自然だった。
襖の前で座り、声をかける。
「母上、玉です」
「お入りなさい」
母の声はいつも通りだった。
けれど私は、母の声の奥に微かな硬さを感じ取ってしまった。
私は襖を開け、部屋に入った。
母は机の前に座っていた。
背筋は真っ直ぐ。
表情は静か。
机の上に、文が置かれている。
封はすでに切られていた。
私は視線を逸らした。
見てはいけない。
見たら、私はもう「知らない子ども」ではいられない。
母は私に気づき、微笑んだ。
「玉、どうしたの?」
私は花を差し出した。
「庭で摘んだの。母上に」
母は少し驚いたように目を丸くし、それから優しく受け取った。
「まあ……きれいね」
母は花を眺めて、少しだけ表情を和らげた。
その一瞬、私は思った。
――この笑顔を、燃やしたくない。
母が花を机の端に置いた。
そして、文をそっと布で隠すようにずらした。
隠した。
その仕草だけで、私は確信した。
これは私に聞かせたくない内容だ。
私は胸の中で深く息を吐いた。
焦るな。
無理に探るな。
今は、自然に。
私は畳に座り、母の顔を見上げた。
「母上、父上は元気?」
母は一瞬だけ目を伏せた。
その間が、答えだった。
「……ええ。元気よ」
嘘ではない。
でも全部でもない。
母は言葉を続けた。
「父上は、殿のお仕事で忙しいの」
私は頷いた。
「殿って、信長さま?」
母は少し驚いた顔をした。
「そうよ」
私は首を傾げる。
「殿って、怖い?」
母の指先が、ほんの少し止まった。
私はその動きを見逃さなかった。
母は静かに言った。
「……強い方よ」
強い。
それは、怖いと同じ意味だ。
私は子どもらしく頬を膨らませた。
「強いって、わるいこと?」
母は苦笑した。
「悪いことではないわ。
強いからこそ、国がまとまることもあるの」
私はそれ以上は聞かなかった。
母の言葉が正しいことも、
その裏に恐れがあることも、私は分かる。
私は少し間を置いて、机の方を見た。
文が隠されている。
見えていないふりをする。
でも、気づかないふりはしない。
私は視線を戻し、母に言った。
「母上、さっき何読んでたの?」
母の顔が、一瞬だけ固まった。
――ここは踏み込みすぎたか。
私はすぐに、子どもらしい理由を足した。
「母上が難しい顔してたから。
お腹痛いのかなって思った」
母は息を吐き、微笑んだ。
「心配してくれたのね」
そして母は私の頭を撫でた。
「大丈夫よ。
ただ、京から届いた知らせを読んでいただけ」
知らせ。
私はその言葉を胸に刻む。
知らせと言った。
ただの挨拶の文ではない。
何かが動いている。
私は首を傾げた。
「京って、遠いの?」
母は頷いた。
「遠いわね。
でも、父上がいるから、心配はいらない」
その言葉の最後が、少し揺れた。
母は心配している。
父の身を。
それだけではない。
父の立場を。
父の未来を。
私はそこで話題を変えた。
「母上、わたし、字のお稽古したい」
母は少し驚いたように私を見る。
「急にどうしたの?」
私は笑った。
「父上がいないと、暇だから。
父上が帰ってきたら、上手になったって見せたい」
母はその言葉に少し安心したように笑った。
「そうね。
玉は賢いものね」
私は胸の奥で苦く笑った。
賢い。
その言葉は、褒め言葉ではなく刃だ。
賢い子は、気づいてしまう。
賢い子は、疑ってしまう。
母は私を抱き寄せ、髪を撫でた。
「お稽古なら、明日からでもいいわ」
私は母の胸に顔を埋めながら、心の中で考えていた。
字のお稽古は口実。
本当の目的は、文だ。
字を学べば、自然に「文」に触れる機会が増える。
母が読んでいる文を、いつか「一緒に読む」流れを作れる。
そのための準備だ。
私は母の腕の中で、小さく頷いた。
「うん」
その夜。
私は自分の部屋で、千代を呼んだ。
千代は静かに入ってきた。
「姫様」
私は声を落とした。
「千代。京から文が来たの、知ってる?」
千代は一瞬迷い、頷いた。
「はい……奥方様に」
私は言った。
「誰から来たの?」
千代は目を伏せた。
「それは……」
言えない。
言えば、千代が危うくなる。
私はそれ以上追わなかった。
追えば、千代が私から離れる。
私は別の聞き方をした。
「お松は、何か言ってた?」
千代の眉が少し動いた。
「……お松は、台所で話しておりました。
『京の空気が騒がしい』と」
京の空気。
その言葉だけで十分だった。
私は頷いた。
「そうなんだ」
千代は私を見て、そっと言った。
「姫様、あまりお気になさらぬ方が……」
私は笑った。
「大丈夫。
ただ、父上が心配なだけ」
千代は安心したように頭を下げた。
「はい」
千代が去った後、私は布団の中で天井を見た。
文の中身はまだ分からない。
でも、分からないからこそ――やり方を変える。
正面からは聞けない。
だから、周囲から削る。
母の表情。
侍女の噂。
家臣の動き。
その全てを集めて、文の中身を推測する。
私は未来を知っている。
けれど、今の私に必要なのは未来ではない。
今の状況だ。
私は小さく息を吸った。
焦らない。
無理に奪わない。
ただ、それとなく。
それとなく探る。
明智玉は、子どもの顔をしたまま、
大人の戦いを始めようとしていた。




