第七話「二つ目の影」
千代を「耳」にした日から、私は屋敷の空気を少しだけ違って感じるようになった。
何も変わっていない。
庭の木は揺れ、侍女たちは忙しく働き、母は変わらず静かに微笑む。
けれど私の中だけが変わった。
私は、聞こうとしている。
聞こうとすると、不思議と世界は音を増やす。
廊下を歩く足音。
桶に水を汲む音。
米を研ぐ音。
井戸端で交わされる小声。
今までただの生活音だったものが、
全部「情報」に見えてくる。
私はそれが怖かった。
怖いのに、やめられない。
未来を止めるには、耳が必要だ。
千代ひとりでは足りない。
千代は優しい。
だが優しさだけでは、情報は深く取れない。
人は、別の人の前では別の顔をする。
だから私は、もう一人――別の種類の耳が欲しかった。
噂好きな耳。
そして、怖がらない耳。
昼過ぎ、私は母の部屋に呼ばれた。
母の前には、小さな箱が置かれていた。
母が私に向かって言う。
「玉、これを見て」
箱の中には、布が入っていた。
薄い紅色の布。
私は目を見開いた。
「着物?」
母は頷いた。
「新しいものを仕立ててもらったの。
あなたも少しずつ、大きくなるでしょう」
その言葉が胸に刺さった。
私は、大きくなる。
当たり前の言葉なのに、私には当たり前ではない。
未来が燃えれば、大きくなる前に死ぬ。
私は笑顔を作り、布に触れた。
柔らかい。
その柔らかさが、逆に怖かった。
この温かいものを、私は失う。
そう思ってしまうから。
母は私の表情を見て、少し眉を寄せた。
「玉?」
私は慌てて言った。
「嬉しい。ありがとう、母上」
母は安心したように微笑んだ。
その時、部屋の外から声がした。
「奥方様、失礼いたします」
襖が開き、侍女が入ってくる。
背の低い、丸顔の侍女。
頬にそばかすがある。
名前は――確か。
「お松」
私は思い出した。
この侍女は、台所にも顔を出し、庭にも出る。
どこにでもいる。
どこにでもいる者は、何でも知っている。
そして、お松はよく喋る。
私はそれを知っていた。
母が言った。
「どうしたの?」
お松は少し興奮したように声を弾ませた。
「はい、奥方様。
京から文が届いたと……」
京。
その一言で、私の心臓が跳ねた。
だが私は顔に出さない。
出してはいけない。
母は静かに聞き返した。
「文? 誰から?」
お松は言いかけて、はっと口をつぐんだ。
そして視線が、私に向いた。
しまった、と思ったのだろう。
母はすぐに言った。
「玉は気にしなくていいのよ」
その言葉で、お松はほっとしたように息を吐いた。
だが私は思った。
――今の間。
お松は、情報を持っている。
そして口を滑らせる。
この侍女は、千代とは違う。
千代は慎重に選んで話す。
お松は、勢いで話す。
私はこのタイプの耳が欲しかった。
母が言った。
「文は、父上様から?」
お松は首を振った。
「いえ、父上様ではなく……
たぶん、京にいる家臣の方からかと」
家臣。
それが何を意味するか、私はまだ分からない。
だが、父の周囲が京で動いていることは分かる。
母は少しだけ表情を曇らせた。
「分かったわ。
持ってきて」
お松は頭を下げ、部屋を出ていった。
私はその背中を見送りながら、心の中で決めた。
――この侍女を、二つ目の耳にする。
その夜。
私は千代を呼んだ。
千代は襖を開け、静かに入ってきた。
「姫様、どうされました」
私は布団に座ったまま、少し声を落とした。
「千代。今日、京から文が来たって聞いた」
千代は一瞬だけ目を見開いた。
「……はい。奥方様のお部屋に届いたかと」
私は頷く。
「お松が言ってた」
千代の眉が、ほんの少し動いた。
「……お松が」
その反応で、私は分かった。
千代はお松を警戒している。
つまり、お松は口が軽い。
私は小さく笑った。
「お松って、よく喋るね」
千代は困ったように笑った。
「はい……。
あの者は悪い子ではありませんが、噂好きで」
私は頷いた。
「ねえ千代。
お松って、色々知ってそう」
千代は少し迷いながら言った。
「台所にも出入りしておりますから……
屋敷のことはよく存じているかと」
私は膝の上で手を握った。
――やはり。
私は千代に言った。
「千代、お願いがあるの」
千代が背筋を伸ばす。
「はい」
私はゆっくり言った。
「お松に、わたしのことをよく見ておくように言って。
わたし、父上がいないと不安なの」
千代は少し驚いたように私を見た。
だが私は、真っ直ぐ見返した。
姫の言葉は命令だ。
千代は頷いた。
「……分かりました」
私は心の中で息を吐いた。
これで、お松が私の周りに来る理由ができる。
姫を気遣うため。
姫の様子を見るため。
その形なら、自然だ。
私は千代に言った。
「千代は、いつもありがとう」
千代は小さく微笑み、頭を下げた。
「もったいないお言葉でございます」
千代が去った後、私は暗闇の中で天井を見上げた。
私は今、影を増やしている。
一人目は千代。
慎重で、静かな耳。
二人目はお松。
噂好きで、軽い耳。
性質が違う耳を持てば、情報は立体になる。
同じ話でも、千代から聞けば真実に近い。
お松から聞けば噂の流れが分かる。
私はようやく、少しずつ世界の輪郭を掴み始めていた。
未来はまだ遠い。
信長との対立も、謀反も、まだ先だ。
けれど、未来は突然燃える。
突然燃えるからこそ、私は今、静かに準備をする。
火種が見えた瞬間に、水をかけられるように。
私は布団の中で小さく呟いた。
(ひとつ目の耳)
(ふたつ目の耳)
(次は――目)
耳だけでは足りない。
私は、誰が何をしているかを見る必要がある。
父が京で会う相手。
屋敷に出入りする使者。
母の表情。
そのすべてが、未来の地図になる。
私は目を閉じた。
暗闇の中で、確かに感じた。
私は少しずつ、この戦国の世界に馴染んでいる。
馴染みながら、未来を変える準備をしている。
誰にも気づかれずに。
歴史に見つからないように。
それが、明智玉の戦い方だった。




