第六話「最初の耳」
父が京へ発った朝、屋敷はいつもより静かだった。
家臣たちの声は控えめで、足音もどこか遠慮がちに響く。
まるで父が出て行っただけで、この屋敷の芯が抜けたようだった。
私は縁側に座り、庭を眺めていた。
風が吹くたび、木の葉が揺れる。
その音が、やけに大きく聞こえた。
父は京へ行った。
けれど私は、父が「何をしに京へ行くのか」を知らない。
殿の御用。
そう言われれば、それ以上は聞けない。
娘の身で、理由を詮索すれば不自然だ。
それは、私が一番分かっている。
未来を知っているからこそ、私は余計に焦る。
焦れば焦るほど、言葉が乱れる。
目が泳ぐ。
声が震える。
そして――疑われる。
疑われた瞬間、私は終わる。
だから私は、今できることをするしかない。
情報を集める。
それだけだ。
未来を変えるための戦いは、まず耳を持つことから始まる。
私は自分の膝の上で手を握りしめた。
忍びを雇う金はない。
屋敷の外へ自由に出ることもできない。
この小さな身体では、家臣たちの話し合いに割って入ることもできない。
つまり私は、外の世界を見られない。
見られないなら、誰かの目を借りるしかない。
――侍女。
屋敷の中を自由に歩き回れる者。
台所にも、井戸にも、門の近くにも行ける者。
男たちの会話の端を拾える者。
侍女は、噂を運ぶ。
誰も気に留めない形で。
私は視線を巡らせた。
庭を掃く者。
廊下を拭く者。
洗濯物を抱えて走る者。
みな忙しい。
みな、私よりもこの屋敷のことを知っている。
私はその中に、ひとりの侍女を見つけた。
千代。
年は二十ほど。
目立たない。
だが目がよく動く。
あの目は、ただ働くだけの目ではない。
周囲を見ている。
人の気配を読んでいる。
――この者は、耳になる。
私は縁側から立ち上がり、千代の方へ歩いた。
草履の音をわざと立てる。
姫が近づけば、侍女は必ず気づく。
千代はすぐに振り向き、頭を下げた。
「姫様」
私は少しだけ笑った。
子どもらしい笑顔を作る。
「千代、父上はもう行ったの?」
千代は一瞬、驚いたように瞬きをした。
姫が父のことを尋ねるのは珍しいのだろう。
けれど、すぐに穏やかな顔に戻った。
「はい。つい先ほど、門を出られました」
私は頷いた。
「……京へ?」
千代の表情が、わずかに固まった。
その小さな間が、私にはよく分かった。
京という言葉は、この屋敷では軽くない。
千代は丁寧に答えた。
「はい。京へ向かわれました」
私は胸の奥で小さく息を吐いた。
――やはり。
父は京へ行く回数が増えていく。
それが未来の始まりなのかどうか、私はまだ分からない。
分からないからこそ、今は焦らず「確認」だけを積み重ねる。
私は少し首を傾げ、子どもの声で言った。
「父上は、何をしに行くの?」
千代は困ったように笑った。
「姫様、それは……殿の御用でございますから」
当然の答え。
私はそれ以上聞かなかった。
聞けば、欲が見える。
欲が見えれば、怪しまれる。
私は話題を変えるように言った。
「京って、どんなところ?」
千代の顔が少し和らいだ。
「人が多く、賑やかでございます。
商人も多く、着物も綺麗で……」
千代は少しだけ楽しそうに言った。
私はその表情を見て思った。
千代は京を知っている。
つまり、京へ行ったことがあるか、京の話を聞く機会がある。
それは大きい。
私は花でも摘むような軽い口調で言った。
「ねえ、千代。
京の話、もっと聞かせて」
千代は嬉しそうに頷いた。
「はい。姫様がお望みなら、いくらでも」
その返事を聞いて、私は確信した。
――この者は、話す。
口が軽いのではない。
ただ、人に話すことを厭わない。
情報を集めるには、まずこういう者が必要だ。
私は袖を軽く握り、少しだけ声を落とした。
「父上がいないと、さみしいの。
だから、父上のこと……何か分かったら教えて」
千代は少し驚いたように目を丸くした。
「姫様……」
私はうつむき、寂しそうなふりをした。
子どもは、寂しさを盾にできる。
大人は、子どもの寂しさに弱い。
千代はすぐに表情を柔らかくし、頷いた。
「はい。姫様。
父上様のこと、何かございましたらお伝えいたします」
その言葉が、胸の奥に小さな灯をともした。
これが最初の耳。
最初の味方。
まだ一人。
たった一人。
でも、ゼロではなくなった。
私は顔を上げ、笑った。
「ありがとう、千代」
千代は頭を下げた。
「とんでもございません」
千代が去ったあと、私は縁側に戻り、庭を眺めた。
空は青い。
何も起きていない。
それでも私は知っている。
未来は、突然燃える。
突然燃えるからこそ、私は少しずつ水を集める。
一人。
二人。
三人。
耳を増やし、目を増やし、手を増やす。
侍女の中には、信頼できる者もいれば、口の軽すぎる者もいる。
父に忠義を尽くす者もいる。
だから私は慎重に選ぶ。
選びながら、私は同時に学ばなければならない。
この屋敷の規則。
侍女たちの序列。
誰がどこへ出入りできるのか。
私はまだ、この世界の常識を知らない。
知らないまま動けば、すぐに綻びが出る。
綻びが出れば、父は気づく。
父は冷静な人だ。
娘の些細な変化も見逃さない。
だから私は、姫のままでいる。
姫らしく振る舞いながら、影を作る。
私は袖の中で拳を握った。
私は剣を持てない。
でも私は、耳を持てる。
耳を持てば、未来が近づく音が聞こえる。
聞こえれば、先に動ける。
先に動ければ、止められるかもしれない。
父の背中を、あの結末へ行かせないために。
私は静かに息を吸い、心の中で呟いた。
(まずは、一人)
(次に、二人)
(それから、三人)
(誰にも気づかれないように)
(少しずつ、未来を削る)
庭の木が揺れた。
その葉の音が、まるで遠い遠い太鼓のように聞こえた。
戦の音ではない。
まだ。
けれど私は、その音を聞き逃さなかった。
未来は、今も静かに近づいている。
だから私は今日、最初の耳を手に入れた。
たった一つの小さな一歩を、確かに踏み出した。




