第五話「影を探す」
私は考えていた。
未来が変わる瞬間は、きっと突然やってくる。
「本能寺」という言葉が、ある日ふいに現実になる。
その時になってから動いても遅い。
だから私は、今この何も起きていない時に、準備をしなければならない。
けれど――。
私は子どもだった。
小さな手。
細い腕。
弱い声。
たとえ私がどれほど真剣に訴えても、
「夢でも見たのだろう」
「怖い話を聞いたのだろう」
そうやって笑われて終わる。
それが分かっている。
大人は、子どもの言葉を信じない。
信じないくせに、都合のいい時だけ「賢い子だ」と褒める。
賢いと言われても、未来は守ってくれない。
私は布団の中で膝を抱えたまま、じっと考えた。
未来を変えるために必要なのは、力ではない。
まず必要なのは、情報だ。
父が何を考えているのか。
信長が何を求めているのか。
誰が父を追い詰め、誰が父を誘うのか。
その「過程」を知らなければ、私は止められない。
けれど、情報を得る術がない。
私は姫だ。
屋敷の外へ自由に出られない。
町へ行って噂を集めることもできない。
忍びの者を雇う金もない。
そもそも金というものを、私は触ったことすらない。
姫は金を持たない。
持たせてもらえない。
私は、この屋敷の中に閉じ込められたまま、
未来の炎に向かって走れと言われている。
理不尽だ。
私は悔しさに唇を噛んだ。
考えろ。
私が持っているものは何だ。
刀はない。
兵はない。
権力はない。
金もない。
あるのは、名前だけだ。
「明智の娘」という名前。
その名前は、未来では私を殺す呪いになる。
でも今は、まだ武器にもなり得る。
私は目を閉じ、思い出した。
この時代で情報を持っているのは誰だ。
武士。
商人。
寺。
そして――女たち。
侍女。
侍女たちは、私の傍にいる。
私よりも自由に歩き、台所に行き、庭に行き、門の近くまで行く。
男たちが話していることを、耳に入れることができる。
噂話を持ってくるのは、いつだって女だ。
私は布団の中で小さく息を吐いた。
影を使うなら、忍びではない。
侍女だ。
侍女は、忍びほど鋭くはない。
だが忍びよりも自然に情報を集められる。
誰も疑わない。
女が耳にする話など、男は「くだらぬ」と笑って見過ごす。
その油断こそが、私の道だ。
私はゆっくりと身体を起こした。
行灯の灯りが揺れている。
その光の中で、私は自分の手を見つめた。
この手は小さい。
でも、この手は「姫の手」だ。
姫が頼めば、侍女は動く。
姫が泣けば、侍女は焦る。
姫が笑えば、侍女は嬉しがる。
私は、武士ではない。
策士でもない。
忍びでもない。
ただの娘。
ただの姫。
だからこそ、使えるものがある。
私は布団を降り、畳に正座した。
頭の中に、やるべきことが並んでいく。
まず、侍女の中で「口の軽い者」を見つける。
次に、「忠義が強い者」を見つける。
そして、「欲のある者」を見つける。
人は、欲で動く。
金が欲しい。
褒美が欲しい。
認められたい。
大事にされたい。
私は金を持っていない。
でも私は、言葉を持っている。
姫の言葉は、褒美になる。
「ありがとう」
「助かった」
「お前だけが頼り」
その程度の言葉で、人は動く。
特に、この屋敷の女たちは。
彼女たちは「役に立つこと」でしか、生きる意味を与えられない。
ならば私は、その役を与える。
――私の影になれ、と。
私は行灯の横に置かれた小箱を見た。
昼間に侍女が持ってきた紙と筆。
紙は高い。
つまり私は、無意識にでも「価値のある物」を与えられている。
姫だから。
姫というだけで、私の周りには物が集まる。
それを利用しない手はない。
私は箱を開け、紙を一枚取り出した。
そして、筆を握った。
昨夜書いた未来は、畳の下に隠した。
誰にも見せられない。
でも、これは別だ。
未来ではない。
今から作るものだ。
私は紙に、丁寧に文字を書いた。
「覚え書き」
それだけで、少し背筋が伸びた。
次に私は、項目を書き出した。
「父上の予定」
「父上が会う相手」
「父上が持ち帰る書状」
「屋敷に来る使者」
「都の噂」
「信長の機嫌」
「羽柴秀吉の名」
「徳川家康の名」
書きながら、胸が苦しくなった。
私は今、子どもが書くべきではない言葉を書いている。
けれど、私は子どもでいられない。
このまま子どもでいれば、
炎の中で死ぬだけだ。
私は紙を置き、息を吐いた。
次は――人を選ぶ。
侍女は皆、同じではない。
噂好きな者もいる。
慎重な者もいる。
父を怖がって口を閉ざす者もいる。
私は、誰を味方にするべきか。
そのためにはまず、侍女たちの顔と名前を覚える必要がある。
私は小さく笑った。
こんなこと、現代なら当たり前だ。
会社でも、まず人間関係を作る。
戦国も同じ。
敵は刀ではなく、人の心。
私は立ち上がり、襖を少し開けた。
廊下は静かだ。
まだ夜が深い。
けれど私は、静かな屋敷の中で確かに感じていた。
歴史は、まだ動いていないのではない。
動く準備をしている。
その音が、聞こえないだけだ。
私は襖を閉め、また畳に座った。
そして心の中で決めた。
私は、まず「目」を手に入れる。
屋敷の中に、私の目を作る。
父の周囲に、私の耳を置く。
私は刀を持てない。
だから情報を持つ。
情報があれば、先に動ける。
先に動けば、父の決意を崩せるかもしれない。
――父の心を折らずに。
そこが一番難しい。
父は誇り高い。
誇りを傷つければ、逆に刃になる。
だから私は、父を責めない。
父の正しさを否定しない。
父の「逃げ道」を作る。
謀反を起こさずに済む道を、
父が自分で選んだと思える道を。
私は拳を握った。
子どもの手が、小さく震える。
怖い。
でも怖いからこそ、準備する。
未来は、突然燃え上がる。
なら私は、その前に水を運ぶ。
一滴ずつ。
誰にも気づかれないように。
私はもう一度、紙に書いた。
「味方を作る」
「父の心を知る」
「信長の空気を知る」
「都の噂を拾う」
「焦らない」
そして最後に、私は小さく書き足した。
「生きる」
その二文字を書いた瞬間、涙が落ちた。
墨が滲んで、文字が少し歪んだ。
私は袖で涙を拭い、紙をそっと畳んだ。
畳の下ではない。
そこに隠したら、未来と混ざる。
これは、私の「今」の武器だ。
私は枕の下に入れた。
眠れなくてもいい。
私は、もう決めた。
明智玉として、ここで死ぬつもりはない。
炎の未来は、まだ確定じゃない。
確定させないために、
私は今日から「姫」として戦う。
その戦いは、静かで、汚くて、誰にも褒められない。
けれど――
私が生きるためには、それしかない。
行灯の灯りが揺れた。
私はその揺れを見つめながら、
静かに息を吸った。
そして、目を閉じた。
未来を止めるための夜は、
まだ終わらない。




