第四話「書き残す未来」
夜になっても、眠れなかった。
行灯の灯りが、部屋の隅をぼんやり照らしている。
外では虫の声が途切れず、風が障子をわずかに揺らした。
静かすぎる夜だった。
私は布団の中で目を開けたまま、天井を見つめていた。
父の声が、まだ耳に残っている。
「玉は?」
その一言が、優しさなのか、監視なのか、分からない。
分からないから怖い。
私は、息を吐いて身体を起こした。
このまま何もせずにいたら、
私はいつか、歴史の流れに飲み込まれる。
だから――まず、整理しなければならない。
自分が知っていること。
自分が知らないこと。
そして、この世界で起きる未来。
私は周囲を見回した。
机がある。
筆がある。
紙がある。
侍女が置いていったのだろう。
私が姫である以上、読み書きはできる前提なのだ。
紙を前にすると、なぜか胸が落ち着いた。
現代でも、頭が混乱した時はメモを取っていた。
書けば、現実になる。
書けば、逃げられなくなる。
私は筆を持った。
小さな手に馴染まない。
けれど、指が勝手に動く。
――この身体は、字を書くことを覚えている。
墨を含ませ、紙に落とした。
最初の文字は、震えた。
「わたしは――」
そこで止まった。
わたしは、誰だ。
玉。
そう呼ばれている。
だが中身は違う。
私は息を飲み込み、書き直す。
「玉」
その二文字を書いた瞬間、胸が痛くなった。
それは私の名前であり、私の牢でもある。
次に、私は書いた。
「父 明智十兵衛」
文字が滲む。
明智。
その二文字が、呪いのように紙の上に残った。
私はさらに書き足す。
「明智光秀」
――やはりそうだ。
父は光秀。
私は、あの歴史の中心にいる。
手が震えた。
だからこそ、書く。
私は紙に、知っている断片を、思い出すままに並べていった。
「織田信長」
「本能寺」
「謀反」
「山崎」
「羽柴秀吉」
「明智 討たれる」
書いてしまった瞬間、息が止まった。
本能寺。
謀反。
父は、信長を討つ。
討って、負ける。
私は筆を置きかけたが、止めた。
書かなければならない。
書くことで、未来を確定させるのではない。
未来を「見える形」にしなければ、私は戦えない。
私はもう一枚、紙を引き寄せた。
そして、さらに書く。
「わたしは細川に嫁ぐ」
細川。
細川忠興。
私はその名を、確かに知っていた。
顔は知らない。
声も知らない。
でも名前だけは、歴史の中に焼き付いている。
私は次の行に書いた。
「細川忠興 (夫)」
胸が苦しくなった。
夫がいる未来。
私は、誰かの妻になる。
そして、その先に待っているものは、幸福ではない。
私は筆を走らせる。
「父が謀反すると、わたしは逆賊の娘になる」
「幽閉される」
「閉じ込められる」
幽閉。
その言葉を書いただけで、息が冷えた。
私はまだ自由だ。
屋敷の中だけだが、歩ける。
母とも話せる。
だが未来では、自由が消える。
人として扱われなくなる。
私の存在が、細川家にとって「汚れ」になる。
その現実が、紙の上で黒く広がった。
私はさらに書く。
「キリスト教」
「洗礼」
「ガラシャ」
ガラシャ。
その名前を書いた瞬間、背中がぞくりとした。
そうだ。
私は最初からガラシャではない。
玉であり、やがてガラシャになる。
それは救いの名前なのか、
それとも、逃げ場のない檻なのか。
私は目を閉じ、記憶を探った。
ガラシャは最後、どうなる。
関ヶ原の前。
石田三成。
人質。
忠興が怒り狂う。
屋敷が燃える。
私は筆を握り直し、書いた。
「関ヶ原の前」
「石田三成が人質を取ろうとする」
「わたしは拒む」
「屋敷が燃える」
「死ぬ」
そこまで書いて、筆が止まった。
死ぬ。
その二文字が、紙の上にあまりにも軽く載っている。
でも軽いはずがない。
私はそれを見つめながら、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
――私は死ぬのか。
史実では、死ぬ。
しかも、ただ死ぬのではない。
炎。
焼け落ちる屋敷。
逃げ場のない夜。
私は記憶を探る。
確か、ガラシャは自害できない。
キリスト教徒だから。
だから、家臣に命じて――。
私は指先が冷たくなるのを感じた。
そして、紙に追加した。
「自害ではない」
「家臣に殺させる」
「火を放つ」
筆が震え、墨が滲んだ。
私は慌てて紙を押さえたが、滲みは消えない。
まるで未来が、墨の染みのように広がっていく。
私は息を吐き、さらに思い出す。
他にもあったはずだ。
父の最期。
母の最期。
兄弟。
細川家のその後。
私は紙に、断片的な記憶を書き殴る。
「父 山崎で敗れる」
「首を取られる?」
「娘として恥を背負う」
「細川忠興 嫉妬深い 短気」
「妻を信用しない」
「徳川家康」
「天下を取る」
「豊臣秀吉」
「天下人になる」
私はそこまで書いて、手を止めた。
……おかしい。
父が謀反を起こすなら、秀吉が天下を取る。
家康が天下を取る。
そういう流れで、関ヶ原が起きる。
でも――。
もし父が謀反を起こさなければ?
もし本能寺がなければ?
そもそも、秀吉は天下人になれるのか?
家康は?
関ヶ原は?
私は急に息が荒くなった。
未来は一本ではない。
私がここに来た時点で、
すでに歴史は歪み始めているのかもしれない。
私は、紙の上の文字を睨んだ。
そこに並んでいるのは、知識だ。
知識だけだ。
私は知らないことが多すぎる。
たとえば――
父がなぜ謀反を起こすのか。
どこで決意するのか。
誰が背中を押すのか。
私は、それを知らない。
私は史実を「結果」でしか覚えていない。
過程を知らない。
そして、過程を知らなければ、止められない。
私は筆を取り、紙の端に書いた。
「父はなぜ裏切る?」
書いた瞬間、胸が痛くなった。
裏切る。
その言葉を使うだけで、父が悪人に見えてしまう。
けれど、私はさっき父の目を見た。
あの目は、悪人の目ではなかった。
ただ――
冷たいほど理性的な人間の目だった。
私はさらに書く。
「信長は何をする?」
「光秀は追い詰められる?」
「誰が敵?」
疑問符だらけの紙になっていく。
私は頭を抱えそうになった。
分からない。
何も分からない。
私はただ、結末だけを知っている。
そして、その結末が、あまりにも残酷だ。
私はもう一枚、紙を出した。
今度は、未来ではなく「今」のことを書く。
「今は尾張」
「父は信長に仕えている」
「都へ行くかもしれない」
「母は信長を恐ろしいと言った」
書いているうちに、ふと気づいた。
私は今まで、重要なことを書いていない。
史実の中で、私にとって最大の鍵。
――細川忠興。
私は忠興のことを、ほとんど知らない。
嫉妬深い。
短気。
妻を幽閉する。
それくらいしか、知らない。
それだけで未来を語っていいのか?
私は紙に書いた。
「忠興はどんな男?」
「わたしは愛される?」
「憎まれる?」
質問が増える。
未来が濃くなるほど、今が薄くなる。
私は、呼吸が苦しくなった。
このままでは、頭がおかしくなる。
私は筆を置いた。
そして、紙の束を見つめた。
そこには未来の断片が、黒い文字として並んでいる。
細川に嫁ぐ。
洗礼を受ける。
逆賊の娘になる。
幽閉される。
炎で死ぬ。
どれも、逃げたい未来。
どれも、私の未来。
私は手を伸ばし、紙を一枚ずつ重ねた。
この紙が誰かに見つかったら、終わる。
未来を知る娘など、異端だ。
恐れられる。
消される。
私は紙を折りたたみ、布の間に挟んだ。
そして、畳の隙間を探す。
指先で押すと、わずかな空間がある。
そこへ紙を滑り込ませた。
畳が戻り、何もなかったように見える。
私は息を吐いた。
これでいい。
未来は、ここに隠した。
だが――。
隠したところで、未来は消えない。
私は布団に戻り、膝を抱えた。
行灯の灯りが揺れている。
私はその光を見つめながら、心の中で呟いた。
私は、玉。
ガラシャになる前の、玉。
まだ何も起きていない。
まだ。
……本当に、まだなのか?
屋敷の外で、犬が一度吠えた。
その吠え声が、妙に不吉に聞こえた。
私は目を閉じた。
眠りたい。
でも、眠ったら――
炎の夢を見る気がした。
だから私は、ただ暗闇の中で息をしていた。
歴史が動き出す音が、
どこか遠くで鳴っている気がして。




