第三話「母の手、父の影」
部屋へ戻る道のりが、異様に長く感じた。
廊下を歩くたびに、板が小さく鳴る。
その音が、まるで「逃げられない」と言っているみたいだった。
明智十兵衛。
明智光秀。
父の名が頭の中で何度も反響する。
――あの人が、裏切る?
さっき見た父は、落ち着いていた。
怖いほど冷静で、理性的で、そして……父親だった。
私を見て、心配していた。
「大事な娘だ」と言った。
その言葉が、逆に胸を刺す。
だって私は、歴史を知っている。
あの男が本能寺で信長を討つことを知っている。
それが、嘘みたいに思える。
でも、名前を聞いた瞬間、確信した。
私は、明智光秀の娘。
この家にいるだけで、未来の火種の中心にいる。
部屋に戻ると、侍女が私を座らせた。
「玉様、お茶を」
湯気が立ち上る。
陶器の器。
手で触れると熱い。
それが妙に現実で、私は少しだけ落ち着いた。
だが、落ち着いた瞬間に、恐怖が形になる。
――私はどうすればいい?
父を止める?
いや、まだそんなことを考えるのは早い。
まずは確認しなければならない。
この世界は、史実通りなのか。
それとも、どこかが違うのか。
私が転生したことで、何かが変わっている可能性もある。
侍女は湯呑を置き、私の顔を覗き込んだ。
「玉様、先ほどから……何かお悩みでございますか」
私は首を振った。
「……少し、疲れただけ」
嘘だ。
疲れなんてものじゃない。
でも、この世界の人間に真実は言えない。
言った瞬間、狂人扱いされる。
侍女は頷き、部屋の隅に下がった。
私は湯呑を持ち、少しだけ口をつける。
苦い。
だが、その苦さが、妙に安心をくれた。
その時だった。
襖の外から、足音が聞こえた。
ゆっくり。
慎重。
誰かが来る。
侍女が立ち上がり、襖の前で膝をついた。
「……奥方様」
奥方様。
その呼び方に、私は背筋を伸ばした。
襖が開く。
入ってきたのは、女だった。
着物は質素だが、品がある。
髪は整い、目は静かに澄んでいる。
年齢は三十を少し過ぎたくらい。
その女は、私を見ると微かに微笑んだ。
「玉」
声が柔らかい。
私は喉が鳴った。
――母?
女は私の前に座り、手を伸ばした。
その手が、私の頬に触れる。
温かい。
驚くほど温かい。
「顔色が悪いと聞きました。まだ、苦しいの?」
私は答えられず、ただ首を振った。
母は、私の目をじっと見た。
その視線が、父と似ていた。
静かに見抜く目。
だが父よりも、優しい。
「……玉。何かあったのなら、母に言いなさい」
私は思わず目を逸らした。
言えない。
私は転生者で、未来を知っている。
あなたの夫は、歴史上最大の裏切り者になる。
そんなこと、言えるはずがない。
母は私の手を取った。
「あなたは最近、眠りが浅いのでしょう。夜に、うなされていると侍女が申していました」
私は息を止めた。
夜に、うなされていた?
つまりこの身体の玉は、最近すでに不安定だったのか。
それとも――私が来る前から、何か兆候があった?
母は続ける。
「父上の働きが忙しくなり、家の空気も張り詰めています。あなたも敏いから、感じているのでしょう」
張り詰めている。
確かに、この屋敷は静かすぎた。
人が笑わない。
子どもが走らない。
まるで、嵐の前。
母は私の手を包むように握り、静かに言った。
「玉。都へ行くことになるかもしれません」
また都。
私は胸の奥がひやりとした。
母は少しだけ声を落とした。
「父上は、織田様のお側で働いています。名誉なことですが……危うい道でもあります」
危うい道。
その言葉が、私の心臓を掴んだ。
母は、何かを知っている?
父が危ない道を歩いていることを、母は感じている?
私は恐る恐る聞いた。
「……危うい、って……?」
母は一瞬、言葉に詰まった。
そして、微笑みを崩さないまま答えた。
「戦は、人の心を変えます。昨日まで笑っていた者が、今日には鬼になる」
その言葉が、妙に現実だった。
母の目が、少しだけ暗くなる。
「父上も……織田様も。皆、同じです」
織田様。
信長。
母は信長をどう見ているのか。
私は、口の中が乾くのを感じた。
母は続ける。
「玉。あなたは、父上を恐れているの?」
私は息を止めた。
怖い。
そう言ってしまいたかった。
でも、それを口に出したら、何かが壊れる気がした。
私は小さく首を振った。
「……恐くない」
母は、私を見つめた。
その目が、私の嘘を見抜いているようで苦しい。
「ならいいの」
母はそう言って、私の髪を撫でた。
その手が、優しすぎて涙が出そうになった。
母は静かに言う。
「父上は、あなたをとても大切に思っています。あなたが生まれた時、あの人は……」
母は言葉を止めた。
何かを思い出したように、少しだけ目を伏せる。
「……泣いていました」
私は驚いて、目を見開いた。
父が泣く?
あの冷静な男が?
母は微笑んだ。
「不思議でしょう。あの人は外では冷たい顔をしています。でも家の中では……」
母は私の手を握り直した。
「玉。父上を信じなさい」
その言葉が、私の胸を痛くした。
信じたい。
信じたら、全部が楽になる。
でも私は知っている。
未来で父は裏切る。
いや、裏切るとされている。
だけど――
本当にそうなのか?
本当に父は悪なのか?
私は、初めて迷った。
歴史の知識はある。
だが、現実の父は目の前にいる。
そして、その父は娘を気にかけている。
母は立ち上がった。
「今日は無理をしてはいけません。ゆっくり休みなさい」
そう言って襖へ向かう。
その背中が、妙に小さく見えた。
私は思わず声を出した。
「……母上」
母が振り返る。
私は言葉を探した。
何を聞けばいい?
何を確かめればいい?
私は結局、こんなことしか言えなかった。
「……父上は……織田様のことを……どう思っているの?」
母の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
それは恐れか、警戒か。
母は静かに答えた。
「……恐ろしいお方です」
心臓が跳ねた。
母は続ける。
「そして、あまりに強すぎる」
強すぎる。
その言葉が、妙に重い。
母は小さく笑った。
「父上は、あの方に仕えることで、この国を変えられると信じています」
信じている。
信じているからこそ、危うい。
母は最後に、私を見つめて言った。
「玉。あなたはまだ幼い。政治のことは分からなくていい。けれど――」
母は声を落とした。
「この家に生まれた以上、あなたは無関係ではいられません」
その一言が、胸に刺さった。
無関係ではいられない。
母は襖を開け、外へ出る。
襖が閉まる音が、妙に大きく響いた。
私は一人になった。
部屋の中は静かで、湯気だけがゆらゆら揺れている。
私は湯呑を握りしめた。
父は泣いた。
母は信じろと言った。
でも母は、信長を恐ろしいと言った。
つまりこの家は、すでに危うい道の上にいる。
私は胸の奥がざわつくのを感じた。
その時、外で男の声がした。
「……殿はお戻りか」
「はい。今宵はお早い」
父の声ではない。
家臣の声。
私は耳を澄ませた。
足音が廊下を進む。
複数人。
重い足音。
そして――
父の声が聞こえた。
「……玉は?」
たったそれだけの言葉で、私は身体が固まった。
父は私を気にしている。
なのに、その声が怖い。
私は布団の端を掴んだ。
逃げ場がない。
この家の中心に、父がいる。
そして父は、織田信長の近くにいる。
歴史が動く前の、静かな時間。
私はその静けさが、いちばん怖かった。
なぜなら――
静けさは、嵐の前兆だから。
私は小さく息を吐いた。
そして、胸の奥で確信する。
まだ何も起きていない。
だが、何かはすでに始まっている。
目に見えない火種が、
屋敷の中で、じわじわと燃えている。




