表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
細川ガラシャになる前の明智玉でした。父の謀反を止めないと私が燃えるので必死です  作者: れんれん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/251

第三話「母の手、父の影」

部屋へ戻る道のりが、異様に長く感じた。

廊下を歩くたびに、板が小さく鳴る。

その音が、まるで「逃げられない」と言っているみたいだった。


明智十兵衛。

明智光秀。

父の名が頭の中で何度も反響する。


――あの人が、裏切る?

さっき見た父は、落ち着いていた。

怖いほど冷静で、理性的で、そして……父親だった。


私を見て、心配していた。

「大事な娘だ」と言った。

その言葉が、逆に胸を刺す。

だって私は、歴史を知っている。

あの男が本能寺で信長を討つことを知っている。


それが、嘘みたいに思える。

でも、名前を聞いた瞬間、確信した。

私は、明智光秀の娘。

この家にいるだけで、未来の火種の中心にいる。


部屋に戻ると、侍女が私を座らせた。

「玉様、お茶を」

湯気が立ち上る。

陶器の器。

手で触れると熱い。

それが妙に現実で、私は少しだけ落ち着いた。

だが、落ち着いた瞬間に、恐怖が形になる。


――私はどうすればいい?

父を止める?

いや、まだそんなことを考えるのは早い。

まずは確認しなければならない。

この世界は、史実通りなのか。

それとも、どこかが違うのか。

私が転生したことで、何かが変わっている可能性もある。


侍女は湯呑を置き、私の顔を覗き込んだ。

「玉様、先ほどから……何かお悩みでございますか」

私は首を振った。

「……少し、疲れただけ」


嘘だ。

疲れなんてものじゃない。

でも、この世界の人間に真実は言えない。

言った瞬間、狂人扱いされる。

侍女は頷き、部屋の隅に下がった。

私は湯呑を持ち、少しだけ口をつける。

苦い。

だが、その苦さが、妙に安心をくれた。


その時だった。

襖の外から、足音が聞こえた。

ゆっくり。

慎重。

誰かが来る。

侍女が立ち上がり、襖の前で膝をついた。


「……奥方様」

奥方様。

その呼び方に、私は背筋を伸ばした。

襖が開く。

入ってきたのは、女だった。

着物は質素だが、品がある。

髪は整い、目は静かに澄んでいる。

年齢は三十を少し過ぎたくらい。


その女は、私を見ると微かに微笑んだ。

「玉」

声が柔らかい。

私は喉が鳴った。

――母?

女は私の前に座り、手を伸ばした。

その手が、私の頬に触れる。

温かい。

驚くほど温かい。


「顔色が悪いと聞きました。まだ、苦しいの?」

私は答えられず、ただ首を振った。

母は、私の目をじっと見た。

その視線が、父と似ていた。

静かに見抜く目。

だが父よりも、優しい。


「……玉。何かあったのなら、母に言いなさい」

私は思わず目を逸らした。


言えない。

私は転生者で、未来を知っている。

あなたの夫は、歴史上最大の裏切り者になる。

そんなこと、言えるはずがない。


母は私の手を取った。

「あなたは最近、眠りが浅いのでしょう。夜に、うなされていると侍女が申していました」

私は息を止めた。

夜に、うなされていた?

つまりこの身体の玉は、最近すでに不安定だったのか。

それとも――私が来る前から、何か兆候があった?


母は続ける。

「父上の働きが忙しくなり、家の空気も張り詰めています。あなたも敏いから、感じているのでしょう」


張り詰めている。

確かに、この屋敷は静かすぎた。

人が笑わない。

子どもが走らない。

まるで、嵐の前。


母は私の手を包むように握り、静かに言った。

「玉。都へ行くことになるかもしれません」

また都。

私は胸の奥がひやりとした。


母は少しだけ声を落とした。

「父上は、織田様のお側で働いています。名誉なことですが……危うい道でもあります」


危うい道。

その言葉が、私の心臓を掴んだ。

母は、何かを知っている?

父が危ない道を歩いていることを、母は感じている?


私は恐る恐る聞いた。

「……危うい、って……?」

母は一瞬、言葉に詰まった。

そして、微笑みを崩さないまま答えた。


「戦は、人の心を変えます。昨日まで笑っていた者が、今日には鬼になる」

その言葉が、妙に現実だった。

母の目が、少しだけ暗くなる。


「父上も……織田様も。皆、同じです」

織田様。

信長。

母は信長をどう見ているのか。

私は、口の中が乾くのを感じた。


母は続ける。

「玉。あなたは、父上を恐れているの?」

私は息を止めた。

怖い。

そう言ってしまいたかった。

でも、それを口に出したら、何かが壊れる気がした。

私は小さく首を振った。

「……恐くない」


母は、私を見つめた。

その目が、私の嘘を見抜いているようで苦しい。

「ならいいの」

母はそう言って、私の髪を撫でた。

その手が、優しすぎて涙が出そうになった。


母は静かに言う。

「父上は、あなたをとても大切に思っています。あなたが生まれた時、あの人は……」

母は言葉を止めた。

何かを思い出したように、少しだけ目を伏せる。

「……泣いていました」


私は驚いて、目を見開いた。

父が泣く?

あの冷静な男が?

母は微笑んだ。

「不思議でしょう。あの人は外では冷たい顔をしています。でも家の中では……」


母は私の手を握り直した。

「玉。父上を信じなさい」

その言葉が、私の胸を痛くした。

信じたい。

信じたら、全部が楽になる。

でも私は知っている。

未来で父は裏切る。

いや、裏切るとされている。

だけど――

本当にそうなのか?

本当に父は悪なのか?

私は、初めて迷った。


歴史の知識はある。

だが、現実の父は目の前にいる。

そして、その父は娘を気にかけている。

母は立ち上がった。

「今日は無理をしてはいけません。ゆっくり休みなさい」

そう言って襖へ向かう。

その背中が、妙に小さく見えた。


私は思わず声を出した。

「……母上」

母が振り返る。

私は言葉を探した。

何を聞けばいい?

何を確かめればいい?

私は結局、こんなことしか言えなかった。


「……父上は……織田様のことを……どう思っているの?」

母の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。

それは恐れか、警戒か。

母は静かに答えた。

「……恐ろしいお方です」

心臓が跳ねた。

母は続ける。

「そして、あまりに強すぎる」

強すぎる。

その言葉が、妙に重い。


母は小さく笑った。

「父上は、あの方に仕えることで、この国を変えられると信じています」

信じている。

信じているからこそ、危うい。


母は最後に、私を見つめて言った。

「玉。あなたはまだ幼い。政治のことは分からなくていい。けれど――」


母は声を落とした。

「この家に生まれた以上、あなたは無関係ではいられません」

その一言が、胸に刺さった。

無関係ではいられない。


母は襖を開け、外へ出る。

襖が閉まる音が、妙に大きく響いた。

私は一人になった。

部屋の中は静かで、湯気だけがゆらゆら揺れている。

私は湯呑を握りしめた。


父は泣いた。

母は信じろと言った。

でも母は、信長を恐ろしいと言った。

つまりこの家は、すでに危うい道の上にいる。

私は胸の奥がざわつくのを感じた。


その時、外で男の声がした。

「……殿はお戻りか」

「はい。今宵はお早い」

父の声ではない。

家臣の声。

私は耳を澄ませた。

足音が廊下を進む。

複数人。

重い足音。


そして――

父の声が聞こえた。

「……玉は?」

たったそれだけの言葉で、私は身体が固まった。

父は私を気にしている。

なのに、その声が怖い。

私は布団の端を掴んだ。

逃げ場がない。

この家の中心に、父がいる。

そして父は、織田信長の近くにいる。

歴史が動く前の、静かな時間。

私はその静けさが、いちばん怖かった。


なぜなら――

静けさは、嵐の前兆だから。

私は小さく息を吐いた。

そして、胸の奥で確信する。

まだ何も起きていない。

だが、何かはすでに始まっている。

目に見えない火種が、

屋敷の中で、じわじわと燃えている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ