第二話「殿の名」
廊下は冷たかった。
裸足の足裏に、木の感触が伝わってくる。
畳の部屋から出ただけなのに、空気の重さが変わった気がした。
女――侍女は、私の少し前を歩く。
その背中が当たり前のように真っ直ぐで、
私はその後ろを、迷子のように追いかけるしかなかった。
曲がり角をひとつ。
またひとつ。
家の中は静かで、どこか張り詰めている。
笑い声がない。
子どもの声もない。
たまに、遠くから男の咳払いが聞こえる。
――この家、何かおかしい。
私がそう感じた瞬間、侍女が立ち止まった。
襖の前。
部屋の前に、男が二人立っている。
鎧ではない。
だが、武士だと分かる。
腰に刀を差し、目が鋭い。
私の姿を見ると、二人は無言で頭を下げた。
侍女が小さく息を吸い、囁く。
「玉様。こちらにてございます」
私は喉を鳴らした。
襖の向こうに、父がいる。
父。
なのに、私には父の顔がない。
父の声もない。
父の匂いも、記憶もない。
ただ「父」という言葉だけが、空っぽの箱みたいに胸に置かれている。
侍女が襖に手をかけた。
その瞬間、私は自分の心臓の音を聞いた。
ドクン。
ドクン。
鼓動が早すぎて、身体が熱くなる。
襖が静かに開いた。
部屋は広くはない。
だが整っていた。
掛け軸。
几帳。
香炉から立ちのぼる香。
そして、部屋の奥に座る男。
背筋が伸び、衣服は質素だが隙がない。
年齢は四十前後か、それ以上か。
髪はきちんと結われ、目が――鋭い。
視線がこちらに向いた瞬間、私は息を忘れた。
目が合っただけで分かる。
この人は、ただの父親ではない。
人を見て、測り、判断する目だ。
侍女が床に手をついて頭を下げた。
「殿。玉様をお連れいたしました」
殿は小さく頷いた。
「……うむ。下がれ」
声は低く、落ち着いていた。
優しいとも冷たいとも言えない。
ただ、揺れがない。
侍女が下がり、襖が閉まる。
部屋の中に、私と男だけが残った。
静けさが、耳を刺す。
私はその場に立ち尽くした。
正座をするべきなのか、礼をするべきなのか。
分からない。
でも分からないことを悟られたら、終わる気がした。
何が終わるのかも分からないのに。
私は恐る恐る膝を折り、真似るように座った。
畳に手をつく。
頭を下げる。
「……お父さま?」
言ってから、自分の声が震えていることに気づいた。
殿は私をじっと見ていた。
沈黙が続く。
その沈黙が、怖い。
まるで私の中身が誰か、見透かされそうだった。
殿はゆっくりと口を開いた。
「玉」
呼ばれただけで、胸が締め付けられた。
「……はい」
「顔を上げよ」
私は顔を上げた。
殿の目は、やはり鋭かった。
だが、その奥に微かな疲れが見えた。
仕事で疲れた父親、というより
戦場を知らない者が触れてはいけない場所にいる人間の疲れ。
殿は私の顔を見て、少し眉を寄せた。
「体調が悪いと聞いたが、もうよいのか」
私は答えに詰まった。
体調が悪い?
私は知らない。
昨日の私はどうしていた?
でも沈黙は危険だ。
私は咄嗟に頷いた。
「……はい。もう、大丈夫です」
殿は目を細めた。
その仕草が、妙に重かった。
「そうか」
一瞬だけ、部屋の空気が和らいだ気がした。
だが次の瞬間、殿は視線を落とし、畳の一点を見つめるように言った。
「……近々、都へ移ることになるやもしれぬ」
都。
その単語が、背中に冷たいものを流し込んだ。
私は必死に平静を装った。
「……都、ですか」
殿は頷く。
「織田様のお側で働く身。これより先、我が家も落ち着かぬ」
織田。
織田様。
その瞬間、頭の中で何かが揺れた。
織田信長。
歴史上の怪物。
名前だけで、教科書のページがめくれる音がした。
殿は続ける。
「玉、お前も覚悟しておけ。都は、この尾張とは違う」
尾張。
尾張って……愛知?
私は喉が鳴るのを感じた。
――尾張にいる。織田がいる。
じゃあ、この時代は。
いや、そんなことより。
この男は織田の側で働いている。
つまり、かなり上の立場だ。
殿は、静かに私を見た。
「……玉。お前は賢い子だ。父の言葉をよく聞け」
賢い子。
その言葉に、私は罪悪感が刺さった。
私は賢い子じゃない。
私はただ、知らない世界に落とされただけだ。
殿は膝の上に手を置き、少し姿勢を正した。
「――名を忘れるな」
名。
私は小さく息を吸った。
玉。
それしか知らない。
殿は、私に言い聞かせるように続けた。
「お前は、我が明智の血を引く娘」
明智。
その二文字が、耳に入った瞬間。
身体の中の血が、一気に冷えた。
明智。
明智って――
私は頭の中で、必死に歴史を探した。
明智。
明智といえば。
明智光秀。
本能寺の変。
裏切り。
信長を討った男。
――まさか。
そんなはずない。
でも、殿の声は淡々と続く。
「我が名は――」
殿はそこで、一瞬だけ間を置いた。
その間が、異様に長く感じた。
私は、息ができなかった。
鼓動が耳の奥で暴れている。
やめて。
名乗らないで。
名を聞いたら、私は確定してしまう。
ここがどこなのか。
私は誰なのか。
そして、未来がどれほど恐ろしいのか。
殿は、静かに言った。
「――明智十兵衛」
明智十兵衛。
その名が、畳に落ちた瞬間。
世界が止まった。
明智十兵衛。
それは明智光秀の別名。
私は、目の前の男を見た。
鋭い目。
静かな声。
揺れない姿勢。
歴史の中の裏切り者。
教科書で見た、あの男。
それが――父。
喉が震えた。
声が出ない。
頭の中で、炎が一瞬だけ浮かんだ。
燃える寺。
叫ぶ人々。
血の匂い。
見たこともないのに、なぜか確信できる。
――この男が、未来で世界を焼く。
殿は、私の表情を見て眉を寄せた。
「……どうした、玉」
私は笑わなければならなかった。
笑って、誤魔化して、何でもないふりをしなければならなかった。
でも頬が引きつる。
唇が震える。
私は必死に声を絞り出した。
「……いえ……」
殿の目が、さらに鋭くなる。
「……何か、隠しておるか」
心臓が止まりそうになった。
見透かされる。
私はこの世界の娘じゃない。
中身が違う。
それを悟られたら終わる。
私は畳に手をつき、深く頭を下げた。
「……申し訳ございません。少し、夢を見たようで……」
殿は黙った。
沈黙が、刀のように背中に刺さる。
そして、殿は低い声で言った。
「夢か」
その声は優しかった。
だが、その優しさは――
獣が獲物を逃がさぬために撫でる手のように感じた。
殿は静かに立ち上がった。
足音が近づく。
私は頭を下げたまま、動けなかった。
殿の影が、私の視界に落ちた。
「玉、父は忙しい」
「……はい」
「だが、お前は大事な娘だ」
その言葉に、胸が痛んだ。
殿は続けた。
「都へ行けば、会えぬ日も増える。ゆえに――」
言葉が途切れる。
私は、頭を上げられない。
上げたら、目が合ってしまう。
殿は最後に、淡々と告げた。
「……しっかりせよ」
その声が、父の声として胸に落ちた。
私は唇を噛んだ。
明智十兵衛。
明智。
光秀。
私は、明智光秀の娘だった。
そして、私の知らない未来が、確実に近づいている。
襖が開く音がした。
侍女が戻ってくる。
殿は背を向け、仕事へ戻るように座った。
「下がれ」
「はっ」
侍女が私の肩に手を添える。
私は立ち上がることすら、少し遅れた。
足が震えていた。
部屋を出る直前、私は振り返った。
父の背中が見えた。
その背中は大きく、静かで、
誰よりも頼れるようにも見えた。
――こんな父が。
本当に裏切るのか。
疑問が胸に刺さった。
だけど、歴史は知っている。
未来は知っている。
私は襖の外へ出た。
廊下の冷たさが、現実を突き刺してくる。
侍女が小さく囁いた。
「玉様、お顔色が……」
私は答えられなかった。
ただ心の中で、ひとつだけ言葉が繰り返されていた。
明智。
明智光秀。
私は、あの男の娘として生きている。
その事実が、
この世界の空気を一気に重くした。




