第一話「玉(たま)という名前」
目を開けた瞬間、天井が木だった。
薄暗い。
梁の影がゆらゆら揺れている。
耳を澄ますと、どこかで水の音がした。
遠くで鳥が鳴いている。
畳の匂い。
煙の匂い。
知らない匂い。
――ここ、どこ?
起き上がろうとして、身体が妙に軽いことに気づいた。
腕が細い。
指が小さい。
布団が大きく感じる。
自分の手を見つめた瞬間、背筋が凍った。
子どもの手だ。
喉の奥がひゅっと縮まって、息が詰まる。
「……うそ……」
声が高い。
自分の声なのに、知らない声だった。
夢だ。
そう思いたいのに、頬を撫でる空気が冷たくて、
畳の感触が妙にリアルで、
指先の震えが止まらない。
襖が開く音がした。
「姫さま。お目覚めでございますか」
女が入ってきた。
着物姿で、髪を結い上げている。
まるで時代劇の世界から抜け出したような格好だった。
姫さま?
私が?
女はにこりと笑って、膝をつく。
「本日は朝よりお加減が優れませぬと伺いましたが……」
言葉が出なかった。
頭が追いつかない。
ここは病院じゃない。
自分の部屋でもない。
テレビのセットでもない。
本物だ。
女は心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「姫さま……?」
私は恐る恐る、布団の上で身を起こす。
衣擦れの音。
袖が長い。
自分の身体に、布がまとわりつく感覚が異様だった。
目の前の女が、私を見て安心したように息をつく。
「よかった……。やはり姫さまは、玉様であらせられます」
玉。
たま。
聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。
玉?
誰?
そんな名前、知らない。
私は口を開こうとしたが、唇が震えてうまく動かない。
女は続ける。
「玉様、殿がお呼びでございます。お目覚めになられたら、お顔を見せよと」
殿。
その単語が怖かった。
父なのか。
主君なのか。
何かの偉い人なのか。
分からない。
分からないのに、身体だけが勝手に緊張していく。
「……殿って……誰……?」
私がそう聞くと、女は不思議そうに首を傾げた。
「殿は殿にございます。玉様のお父上であらせられます」
お父上。
心臓が、強く跳ねた。
父親がいる。
つまり私は、赤ん坊から育ったわけじゃない。
気づいたら、この身体に入り込んでいる。
女は微笑む。
「お疲れが溜まっておられるのでしょう。ご安心くださいませ。殿はお優しいお方です」
優しい。
その言葉が、逆に怖かった。
私は目を逸らし、部屋を見回した。
小さな机。
掛け軸。
灯りは行灯。
窓の外は、まだ朝の白い光。
どこもかしこも、現代じゃない。
――戦国時代?
そんな馬鹿な。
でも、あり得ないはずのものが目の前に揃いすぎている。
私は必死に記憶を探った。
歴史。
有名な事件。
有名な人物。
頭の中で、いくつかの名前が浮かびかけて、すぐ消える。
情報が足りない。
私はまだ、何も知らない。
女は私の反応を気にせず、淡々と支度の準備を始めた。
布を持ってくる。
髪を整える道具を置く。
小さな櫛。
私はただ、その手元を見ていた。
女の指先は慣れていて、迷いがない。
この生活が当たり前なのだと伝わってくる。
胸の奥がざわついた。
私はここで生きている。
ここで生きてきたことになっている。
女がふとこちらを見て言う。
「玉様。殿は、京へお出になられる前に、お会いしたいと」
京。
その言葉に、身体が固まった。
京。
都。
歴史の中心。
急に、見えない恐怖が背中を撫でた。
京には何がある?
誰がいる?
私の知らない「殿」は、京で何をしている?
分からない。
でも、ただ一つだけ。
この世界は、静かに危険な匂いがする。
女が私の手を取り、優しく立たせた。
足が畳に触れる。
ひんやりと冷たい。
私はふらつきながらも、立ち上がった。
女が笑う。
「玉様、少しお顔色が戻りました。よろしゅうございます」
私は答えられなかった。
玉。
私は玉。
知らない名前。
知らない身体。
知らない家。
知らない父。
だけど、ここで間違えたら
そんな根拠のない直感だけが、胸の奥で鳴っていた。
廊下に出る。
障子越しの光が眩しい。
木の床がきしむ。
その一歩一歩が、現実の音だった。
私は唾を飲み込んだ。
この先にいるのが、父。
父が誰なのか。
そして私は、誰なのか。
それを知るのが怖かった。




