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細川ガラシャになる前の明智玉でした。父の謀反を止めないと私が燃えるので必死です  作者: れんれん


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第七十三話「上洛命令、朝廷の鎖 ― 御馬揃えへ ―」

岐阜城の朝は、重かった。

昨日まで城内に漂っていた勝利の余韻は消え、

代わりに、誰もが言葉を選んで歩いている。


廊下の空気が冷たい。

まるで、見えぬ縄が城全体を締めつけているようだった。

玉は女中たちの囁きを聞きながら、胸の奥が締め付けられるのを感じていた。

「朝廷が殿に文を送った」

「玉様を都へ、と」

「細川が裏で……」

(都……)


玉は思わず足を止める。

都は華やかであるはずなのに、

玉にとっては闇だった。

そこには細川がいる。

そして“ガラシャ”へ続く道がある。

だが玉が恐れているのは、細川だけではない。

(都が動くと……光秀が動く)

朝廷の声が強まれば、

信長は苛烈さを増す。

苛烈さが増せば、

光秀は追い詰められる。

追い詰められた光秀が、最後に選ぶのが本能寺。


玉は唇を噛んだ。

(止めなければ)

自分がここにいる理由はそれだ。

信長の間。

信長はすでに座していた。

帰蝶が隣に控え、

信忠は一段下で姿勢を正している。

そして明智光秀が呼ばれていた。

光秀は畳に額がつくほど頭を下げる。


信長は書状を机に置き、淡々と言った。

「朝廷からの文だ」

光秀が静かに答える。

「……拝見いたしました」

信長は鼻で笑った。

「玉を上洛させよ、だと。

宴の次は、都の舞台に引きずり出す気か」


帰蝶が扇で口元を隠す。

(細川は噂で終わらぬ。

次は“朝廷の命”に仕立てたか)

信忠の拳が膝の上で固くなる。

(玉を都へ出せば終わる。

細川に奪われる。

いや、それだけではない……)

信忠は分からない。

だが本能的に感じている。

都は危険だ。


信長は光秀を見た。

「光秀。都の空気はどうだ」

光秀は一呼吸置き、慎重に答えた。

「……殿。朝廷は殿を恐れております」

信長の目が細くなる。

「恐れる?」

光秀は続けた。

「長島の件以来、殿の苛烈さが語られ、

都では“信長は朝廷を滅ぼす”という噂がございます」


信長の口元が歪む。

(滅ぼす?俺が?

都の奴らは相変わらず己の権威に酔っている)

だが光秀は、さらに踏み込んだ。

「その恐れを利用し、細川が“道理”を整えております」

信長の空気が一段冷えた。


帰蝶は扇の陰で息を吐く。

(殿、怒るな。

怒れば都は“正義”を得る)

信長はゆっくり立ち上がった。

「都は、俺に礼を求めるか」

信長の声は静かだ。

だからこそ怖い。

「礼を尽くしたところで、

奴らは次の鎖を持ってくる」

信長は光秀を見下ろした。

「光秀。

朝廷が本当に望んでいるのは、玉か?」


光秀は一瞬、息を止めた。

だがすぐに答えた。

「……玉、そのものではございませぬ」

信長の目が光る。

光秀は続けた。

「朝廷が望むのは、“織田が従う”という形。

殿を縛る鎖です」


信忠の顔が引き締まる。

(光秀……正しい。

だが殿はこの言葉を喜ばぬ)

信長は笑った。

「なるほど。

ならば鎖を逆に使う」


信長は帰蝶を見る。

「帰蝶。上洛する」

信忠が息を呑む。

「殿……!」

信長は手を上げ、信忠を止める。

「行かねば噂が育つ。

行けば都の面子は保たれる。

だが――」

信長は光秀を見た。

「行って、鎖を叩き折る」

(都の奴らは、俺を縛れると思っている。

ならば縛られたふりをして、首を掴んでやる)


帰蝶は静かに言った。

「殿。

上洛は避けられませぬ。

ですが玉を都へ出す必要はございませぬ」

信長は目を細める。

「出さぬと朝廷が言うぞ」

帰蝶は微笑んだ。

「言わせませぬ。

都の者は“名分”に弱い」

帰蝶の心の声。

(名分を作れば、朝廷は黙る。

玉を都の器ではなく、織田の役目に縛る)


信長は帰蝶の顔を見て笑った。

「お前は本当に都を知っている」

信忠は帰蝶を見つめた。

(帰蝶様は、玉を守るつもりだ。

だが守り方が恐ろしい)


その時、光秀が静かに口を開いた。

「殿。上洛の際、都の者たちは必ず探ります」

信長が目を向ける。

光秀は言葉を続けた。

「殿が朝廷を滅ぼすおつもりか。

あるいは、和するおつもりか」

信長は笑った。

「探らせておけ」


光秀の心中

(探らせれば探らせるほど、

殿は“危険な覇者”として語られる)

(そしてその対極に置かれるのは)

光秀は胸の奥で、言葉にならぬ嫌な予感を抱いた。

(私だ)


その頃、玉は帰蝶の部屋へ呼ばれていた。

帰蝶は玉を座らせ、淡々と言った。

「玉。朝廷の召しが来た」

玉は息を呑む。

「……都へ参れ、と」

帰蝶は頷く。

玉の指先が冷たくなる。

(来た……)

帰蝶様の言った通りだ。

噂は沈んだ。

だが沈んだ底で形を作り、

ついに“朝廷の声”になった。


玉は喉を鳴らした。

「私は……どうすれば」

帰蝶は扇を閉じた。

「お前は行かぬ」

玉の目が大きく開く。

「……本当でございますか」

帰蝶は淡々と続けた。

「殿が決める。

だが、殿が都へ行く以上、都はお前を諦めぬ」

玉は息を止める。

帰蝶は玉を見つめ、言った。

「玉。

お前が都に奪われぬためには、

都が口を挟めぬ“立場”を作るしかない」


玉の胸が締めつけられる。

(立場……)

帰蝶の心の声。

(この娘はまだ若い。

だが火は若いうちに形を決めねばならぬ。

形が無ければ、風に飛ぶ)

帰蝶は言い切った。

「お前はこれから、ただの奉公人ではない。

織田の役目を持つ者になる」

玉は震える声で問う。

「役目とは……」


帰蝶は微笑んだ。

「織田の台所を預かる。

宴と兵站を司る。

殿の軍を腹から支える」

玉は息を呑む。

それは名誉だ。

だが同時に、鎖だ。

(私は……自由を失う)

(だが……細川に嫁ぐよりは)

玉は覚悟を決めるように頷いた。

「……承知いたしました」

帰蝶は扇で口元を隠した。

(よい。逃げぬ顔だ。

これで細川は“嫁に取る”という形では動けぬ)


その夜。

明智光秀は一人、灯の前で書状を書いていた。

信長への報告。

朝廷の動き。

細川の噂。

公家たちの会話。

ありとあらゆる情報を細かく、細かく書き記す。


玉が以前、伝えた言葉が胸に残っている。

――父上の評判の良さが危険です。

――殿の苛烈さが、謀反を期待させます。

光秀は筆を止めた。

光秀

(なぜ玉殿は、そこまで見えている)

(だが、今なら分かる。

都は“殿を止める者”を求めている)

(そしてそれは、私に向けられる)

光秀は深く息を吐いた。

(ならば私は、殿を裏切らぬために、殿を支える)

筆を再び走らせる。

細かすぎるほどに。

しつこいほどに。

信長が嫌がるほどに。

だがそれが、光秀自身の命綱になる。


しかし同時に――光秀は悟り始めていた。

都の噂は、いつも“人を選ぶ”。

信長を悪と呼ぶために、

その対になる善を必要とする。

そして朝廷は、善の器を探している。

光秀

(私は、器にされる)

(器にされれば、やがて壊される)

その恐怖は、これまでの戦よりも深かった。


一方、京。

内裏では、評定が続いていた。

公家たちの声は静かだが、内容は鋭い。

「信長公は上洛するという」

「御馬揃えも行うと聞く」

「武威を見せつけ、朝廷の威を奪う気か」

別の公家が言った。

「いや、奪う気ではない。

奪えると示すのだ」


その言葉に、誰も否定できなかった。

(信長は危険だ)

(だが、武力を持つ者を否定できぬ)

(否定できぬなら、鎖で縛るしかない)

そして鎖の材料は“儀”である。

「御馬揃えを天子様が御覧になる。

それは天下の形となる」

「ならば信長公に、礼を尽くさせねばならぬ」


礼を尽くさせるとは、従わせることだ。

(我らが生き残るためには、

武の覇者を“朝廷の枠”に入れねばならぬ)

そしてその枠に入れるための飾り

都に相応しい娘。

「織田に玉という娘がいる」

「都の器だと聞く」

「ならば、上洛の儀に加えるべきではないか」

それは召しという名の鎖。

朝廷は、玉を必要としているのではない。

玉を使って信長を縛るのだ。


細川はその動きを聞き、静かに笑った。

「朝廷は恐れている」

家臣が頷く。

「信長公を恐れ、礼を求めております」

細川は杯を傾けた。

(恐れは、必ず正しさを求める)

(正しさは、私の味方だ)


細川は淡々と言った。

「御馬揃えが行われれば、都はさらに震える。

震えれば、誰かを“正義”として持ち上げる」

家臣が息を呑む。

「誰を……?」

細川は迷わず言った。

「明智だ」

細川の心の声が冷たく続く。

(明智は都の作法を知り、礼を知り、

朝廷の言葉を理解する)

(信長の荒さを中和できる男)

(だからこそ、朝廷は明智を好む)

細川は微笑んだ。

(好まれれば、明智は逃げられぬ)

(そして明智が目立てば目立つほど、

殿は孤独になる)


細川は杯を置いた。

「殿が孤独になれば、火は起きる」

それは言わぬままでも、家臣には伝わった。

細川は最後に呟いた。

「玉はその火の中で、必ず揺れる」


岐阜城。

玉は夜の廊下を歩きながら、灯を見つめた。

炎が揺れている。

本能寺の火が、遠くで息をしているように見えた。

玉は胸に手を当て、静かに呟いた。

「……私は、止める」

光秀の謀反を。

細川の縁を。

そして、自分の未来を。


だがその未来は、まだ薄暗い。

玉は分かっていた。

御馬揃えが行われれば、

信長の威勢は天下に響く。

それは勝利の証であり、

同時に、都の恐れを生む。

恐れは“正義”を呼ぶ。

そして正義は――光秀を選ぶ。

(お願いだから……父上を正義にしないで)

(正義にされた人間は、逃げられない)


玉は拳を握った。

(間に合え)

その祈りのような言葉が、

静かな城内に溶けていった。

そして都では、御馬揃えの準備が着々と進み、

天下が信長の威を目撃する日が近づいていた。

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