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細川ガラシャになる前の明智玉でした。父の謀反を止めないと私が燃えるので必死です  作者: れんれん


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72/201

第七十二話 「信忠、嫡男の牙」

朝廷からの文が届いた翌朝。

岐阜城の空気は、目に見えぬ糸で縛られたように重かった。


廊下を歩く足音さえ、どこか控えめになる。

武将たちの笑い声は消え、

代わりに聞こえるのは、低い囁きと紙を擦る音。

「朝廷が動いた」

「細川が裏で糸を引いたらしい」

「殿はどうなさる」


玉はその声を聞くだけで、喉が渇いた。

(来た……)

自分が知っている未来の中で、

朝廷の動きはいつも“火種”になる。

そしてその火種は、やがて本能寺へ繋がっていく。


玉は拳を握った。

(ここで間違えば、父親が追い詰められる)

それだけは避けねばならない。

信忠は、父の居間へ呼ばれていた。

扉の前に立った時点で、信忠は感じ取っていた。


殿――信長の機嫌は悪い。

いや、怒りではない。

冷えている。

その冷たさが、もっと恐ろしい。

信忠が襖を開けると、信長は座して書状を読んでいた。

帰蝶も控えている。

そして、明智光秀もいた。


信忠の胸がざわつく。

(光秀まで呼ばれている……)

信長は顔を上げ、短く言った。

「朝廷より文が来た」

信忠は頭を下げる。

「……承知しております」

信長は書状を畳に置き、淡々と続けた。

「玉を上洛させよ、とな。

都の儀に参じさせたいそうだ」

信忠は息を呑んだ。

(玉を都へ……?)

それは命令ではない。

だが断れば、織田の評判が落ちる。

(細川め。噂が潰れれば次は“召し”か。

都は相変わらず姑息だ)


信長は光秀を見た。

「光秀。朝廷の様子はどうだ」

光秀は静かに答えた。

「……殿。朝廷は表向き丁寧ですが、裏では不安が増しております」

信長の眉が動く。

「不安?」

光秀は少し間を置き、言葉を選んだ。

「長島の件以来、殿の苛烈さを恐れる声がございます。

その恐れを利用し、細川が“道理”を整えているように見受けられます」


信忠は胸が熱くなった。

(光秀は正しく言っている。

だがそれを言えば殿は――)

信長は笑った。

「恐れ?都が恐れるのは、俺が正しいからだ」

信忠の背筋が凍る。


帰蝶が扇で口元を隠した。

(殿……怒りに任せるな。

都の刃は、怒った者を切る)

信忠は思わず口を開いた。

「殿。玉を都へ出すのは危険にございます」

信長が目を細める。

「何が危険だ」

信忠は言葉に詰まる。

(玉が細川に奪われる、とは言えぬ)

(父上は玉を“策”と宣言した。ならば――)


信忠は腹を決めた。

「玉は織田の働き手。

宴と兵站を支える者。

都へ出せば、朝廷はそれを“都の者”として扱い、

織田の内政に口を挟む口実を与えます」

信忠の声は震えていたが、言葉は真っ直ぐだった。

信長が少し黙る。

信忠は続けた。

「玉を出せば、織田の火は都に渡ります。

火を渡せば、必ず奪い合いが起こります」

(俺は守りたい。

だが守りたいと言えば負ける。

だから織田の理で守る)

信長は信忠をじっと見た。

その沈黙が、信忠の喉を締めつける。


やがて信長が、低く笑った。

「……信忠。お前、ようやく言葉を覚えたな」

信忠の背中に汗が滲む。

(こいつは優しいだけの男では終わらぬかもしれん。

嫡男として使える)


帰蝶は静かに微笑んだ。

(信忠。よく耐えた。

情で言わず、理で刺した。

これが嫡男だ)


だが光秀の顔は、わずかに曇っていた。

(信忠様が強くなるほど、殿の孤独は薄れる。

それは良い)

(だが朝廷は、殿を止める“正義”を欲している。

その正義に選ばれるのは――)

光秀は言葉を飲み込んだ。

(私だ)

その予感が、胸の奥を冷やした。

信長は腕を組み、淡々と言った。

「ならばどうする。

朝廷の召しを無視すれば、噂は広がる。

従えば、玉が都の玩具になる」

信忠は答えられない。

そこで帰蝶が口を開いた。

「殿。上洛は避けられませぬ」

信忠が帰蝶を見る。


帰蝶は続けた。

「ですが玉を出す必要はない。

出すならば“形”を整えてからです」

信長が目を細める。

「形?」

帰蝶は扇を閉じた。

「玉をただの姫として出すから奪われる。

ならば姫ではなくすればよい」


信忠の胸が跳ねた。

(帰蝶様……何を考えている)

帰蝶

(玉を守るには、鎖が要る。

自由を奪う鎖だ。

だがその鎖は命を繋ぐ)

信長が笑った。

「帰蝶、お前らしい」

信長は光秀を見る。

「光秀。朝廷への返し文を整えよ。

礼は尽くす。だが玉は出さぬ」


光秀は頭を下げた。

「ははっ」

(殿が朝廷に礼を尽くす。

それは異例だ。

玉という娘が、殿の行動を変えている)


その頃、玉は呼ばれていなかった。

だが城内の空気で、何が起きているかは分かった。

女中たちの囁きが止まらない。

「玉様が都へ呼ばれたそうだ」

「細川が裏で動いている」

「朝廷が望んでいるとか」

玉は廊下で立ち止まり、壁に手をついた。


息が浅くなる。

(都……)

都へ行けば、歴史は大きく動く。

そしてそこには、細川がいる。

玉は喉を鳴らした。

(私は……)

帰蝶様に教えられた言葉が頭に浮かぶ。

――礼を尽くして刺せ。

(なら、私はどう刺す)

玉はその瞬間、気づいた。

自分は守られているだけではいけない。

信忠が守ろうとしてくれている。

帰蝶が戦ってくれている。

ならば自分も、織田の中で役に立たねばならない。

(私は……火だ)

火は照らすだけではない。

敵の影を浮かび上がらせる。


玉は胸を押さえ、静かに息を吐いた。

(私は、役目を作る)

自分が“必要な存在”になれば、

誰も勝手に動かせなくなる。


その夜。

信忠は一人、庭を歩いていた。

月明かりが石畳を照らし、

虫の声が静かに響く。

信忠は拳を握った。

(俺は今日、殿に意見を言った)

それは初めてだった。

守るために、言葉を選び、理を立てた。

(守るだけでは勝てない)

(勝たねば守れない)


信忠は空を見上げた。

(玉を守ることは、織田を守ることになる)

(織田を守ることは、父上を守ることになる)

だがその時、信忠は気づいた。

(父上は……誰にも守られていない)

信忠の胸が痛む。

信長は強い。

だが強すぎるがゆえに、誰も止められない。

それが本能寺を呼ぶ

信忠は知らない。

だが玉は知っている。

そして信忠は、言葉にならぬ不安を感じていた。

(俺は、父上の背中を支えられるか)


その頃、帰蝶は一人、灯の前で書状を書いていた。

(細川が朝廷を使った。

ならばこちらも朝廷を使う)

(殿が怒れば終わる。

殿の怒りを都の礼に変えるのは私の役目)

帰蝶は筆を止め、ふっと笑った。

(玉。お前は殿の火だ。

だが火は、持ち主を変える)


翌朝。

玉は呼び出され、帰蝶の前に座した。

帰蝶は静かに言った。

「玉。お前は都へは行かぬ」

玉の胸が跳ねた。

「……本当でございますか」

帰蝶は頷いた。

「殿が決めた。

だが代わりに、お前には役目が増える」

玉は息を呑む。

帰蝶の目が鋭くなる。

「お前はこれから“織田の者”として名分を持つ。

それが細川への答えになる」

玉の心臓が早鐘のように鳴った。

(名分……)


帰蝶は微笑む。

「喜べ。

お前は守られるだけの娘では終わらぬ」

玉は深く頭を下げた。

「……はい」

だがその胸の奥では、別の火が静かに燃えていた。

(私は守られるのではない)

(私が……未来を守る)

その瞬間、玉ははっきりと理解した。

細川の戦は、まだ終わっていない。

都の刃は、これからさらに鋭くなる。


そして――

本能寺の火も、まだ消えてはいない。

襖の外で、風が吹いた。

灯が揺れる。

その揺れが、次の戦の始まりを告げているように見えた。

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