第七十四話「御馬揃え、天下の目 ― 光秀の書状 ―」
京の夜は静かだった。
だが静けさの底で、都は息を潜めていた。
噂が走り、思惑が絡み、礼と道理が刃となって磨かれている。
明智光秀は灯の前に座し、筆を握ったまま長く動かなかった。
書けば、殿を煩わせる。
書かなければ、殿が都の罠に踏み込む。
そして何より
自分が都の道理に“正義”として使われる。
光秀の喉が鳴った。
(私は殿の家臣である)
ただそれだけのはずが、京ではそれだけでは済まぬ。
光秀は覚悟を決め、筆を走らせた。
【明智光秀 書状】
恐れながら申し上げ奉ります。
光秀は、殿の家臣の一人に過ぎませぬ。
この身、殿に絶対の忠誠を誓うものとして、
敢えて失礼とは存じますが、書き付け奉りたく候。
此度の御馬揃え、
殿の天下人としての御威光は、もはや不動のものとなりましょう。
しかしながら
朝廷の御心中は、恐れながら推し量るに、
京の守りを任される光秀に、その危機感を肩代わりさせ、
殿と光秀を仲違いさせる策ではないかと存じ候。
光秀は、殿の家臣として誇りを持ち、
朝廷との距離も、ただ殿の御威を保つための役目としてのみ果たして参りました。
私信など一切ござりませぬ。
娘の玉もまた、帰蝶様に可愛がられ、
織田家の御恩に預かっております。
光秀にとり、殿は大恩ある主君。
その殿に罠が掛かることだけは、何としても避けたく存じ候。
もしこの身が、都の策により“正義”の役回りを押し付けられるのであれば、
光秀は京の役目を辞し、蟄居仕り候。
御馬揃えの後は岐阜に戻り、
余生を静かに送ることを本望と致します。
この身が退けば、朝廷の罠も形を失い、
殿の御威光に泥を塗る者も無くなりましょう。
殿ほどのお方であれば、既にこの策を推し量られていることとは存じます。
されど、家臣としての忠心、
この一筆にてお汲み取り頂ければ幸いに存じ候。
明智光秀
書き終えた光秀は、筆を置いた。
灯の炎が揺れ、墨が乾く匂いが静かに漂う。
(これでよい)
(殿が怒るなら、それでもよい)
(殿が私を疑うなら、それでもよい)
(ただ、殿が罠に落ちるよりは)
光秀は深く頭を下げ、書状を封じた。
数日後。
信長の宿所。
信長は、京の喧騒の中でその書状を受け取った。
使者が去ると、信長は一人、紙を開いた。
読み進めるうち、信長の目が細くなる。
怒りではない。
笑いでもない。
ただ――興が宿った。
(光秀め……ここまで言うか)
書状の文字は整っていた。
だが整いすぎている。
整いすぎているがゆえに、覚悟が見えた。
(京の役目を辞し、蟄居する、と)
(つまり自ら武将としての命を捨てると申すか)
信長は鼻で笑い、紙を机に置いた。
だがその笑いは、いつもの嘲りではなかった。
(面白い)
(この男は、己の名誉よりも、俺の威を守ると申す)
(そして娘の身を案じている)
信長の視線が止まる。
玉。
あの娘の顔が一瞬浮かぶ。
怯えた目。だが逃げぬ目。
(光秀の娘か……)
(親の顔が見える)
信長は静かに息を吐いた。
(蟄居で潔白を示す、か)
(なるほど。完全ではないが、筋は通る)
信長は顎に手をやり、しばらく考えた。
そして呟く。
「……だが」
(馬揃えは、もう動いておる)
(この場で光秀を退かせれば、都はこう言う)
――信長は家臣を恐れた。
――明智を退けたのは疑いがあるからだ。
――信長は朝廷を恐れている。
そう噂が走る。
それは鎖となり、天下に残る。
信長は唇の端を上げた。
(光秀が退けば罠が消える?)
(違う。罠は形を変えるだけだ)
信長は書状を畳み、机を指で叩いた。
信長の心の声。
(朝廷が欲しいのは、明智ではない)
(“信長を止める者”だ)
(明智が消えれば、次は信忠か、柴田か、羽柴か)
(そしていずれは、帰蝶か――)
信長の目が鋭くなる。
(都は、俺の周りに刃を置きたい)
そこへ、帰蝶が入ってきた。
信長は書状を差し出す。
帰蝶は目を通し、ふっと笑った。
(光秀は、逃げ道を作った)
(だが逃げれば、都はもっと喜ぶ)
帰蝶は扇を閉じた。
「殿。光秀は真面目すぎます」
信長が答える。
「真面目でなければ、都の罠に気づかぬ」
帰蝶は信長の目を見た。
「殿はどうなさいます」
信長は笑った。
「光秀を退かせぬ」
帰蝶の眉がわずかに動く。
信長は続けた。
「退けば、都は『信長は明智を恐れた』と言う。
それこそ罠だ」
帰蝶は思った。
(殿は分かっている)
(分かっていてなお、都の舞台に立つ気だ)
信長はゆっくり立ち上がった。
「だが光秀の忠心は使う」
帰蝶が問う。
「どう使うおつもりで?」
信長の目が冷たく光る。
「都の前で、光秀を“俺の犬”にする」
帰蝶が微笑む。
「……殿らしい」
信長の信長たる所以が顔を見せる。
(光秀を正義にさせぬ)
(正義は俺が握る)
信長は家臣を呼び、命じた。
「明智を京の守りに据える。
だが役目を分ける。
京の警護は明智だけに任せぬ」
「丹羽にも、滝川にも、役を与えよ。
明智の肩に全てを乗せるな」
家臣が頭を下げる。
信長はさらに続けた。
「そして朝廷への礼は尽くす。
だが礼は“俺の意思”として見せる」
(都が作る鎖を、俺の鎖に変える)
(礼を尽くすのは、従うためではない)
(天下を整えるためだ)
その夜、信長は光秀へ返書をしたためた。
短い。
だが重い。
【信長 返書】
光秀。
書状、見た。
お前が退けば、都はさらに騒ぐ。
退くな。
京は俺が見る。
お前は俺の家臣として、役目を果たせ。
蟄居など口にするな。
それは潔白ではなく、都の望みだ。
娘の件は心配するな。
織田の鎖は、都の鎖より強い。
信長
書き終えた信長は筆を置いた。
(光秀が逃げれば、都は勝つ)
(逃げずに、俺の下で戦わせる)
(そして都に見せつける)
――明智は朝廷の犬ではない。
――信長の家臣だ。
翌日。
京の町にはすでに旗が立ち、
馬場は整えられ、武将たちの鎧が陽に光っていた。
御馬揃えは、止まらない。
天下が信長を見る。
朝廷が信長を測る。
そして都が――光秀を“正義”に仕立てようとする。
だが信長は、その正義すら奪うつもりだった。
岐阜城。
玉は、遠く京の噂を聞きながら胸を押さえた。
「御馬揃えが始まるそうだ」
「明智様も参加する」
「殿は天下に威を示される」
玉の指先が震える。
(光秀が……都の正義にされる)
(お願いだから、父を壊さないで)
だが玉は分かっていた。
歴史は、祈りでは止まらない。
止めるには、仕組みがいる。
鎖を断つには、別の鎖がいる。
玉は静かに息を吐いた。
(帰蝶様……私は、もっと役に立たねば)
(殿の周りに、刃を置かせないために)
遠い京の空を思い浮かべながら、
玉は拳を握った。
御馬揃えは、ただの儀式ではない。
天下の目が、
信長と光秀を“試す”舞台だった。
あとがき
今回の話を読んでもらえた方に、この光秀の危機感と緊張感は伝わりましたでしょうか?
史実とは馬揃えの経緯は違いますが物語としての構成で、時期的には史実に近い時期に馬揃えを行っております。
今回は細川の裏工作と光秀の危機察知能力と、信長の天下人としての懐の深さを感じてもらえたら嬉しいですね。




