第六十八話「細川の二手、信忠の焦り」
翌朝。
城内はいつも通りの静けさを取り戻していた。
だが玉には分かった。
空気が違う。
昨夜の宴は終わったのに、
まだ誰かの視線が廊下の隅に残っているような気配がする。
玉は帰蝶の言葉を思い出しながら、背筋を伸ばした。
堂々としていろ。笑え。
その言葉だけが支えだった。
信忠は朝早くから起きていた。
眠れなかった。
守ったはずなのに、胸の奥が落ち着かない。
細川は引いた。
だが、あれは引いたのではない。
「退いただけ」だ。
信忠は湯を飲み干し、低く呟いた。
「……次が来る」
その時、廊下から足音がした。
家臣が駆け込んでくる。
「信忠様。細川殿が、殿に拝謁を願い出ております」
信忠の眉が跳ねた。
「……朝からか」
胸の奥が嫌な音を立てる。
信忠はすぐ立ち上がった。
「俺も行く」
信長の間。
信長はすでに座し、いつも通り落ち着いていた。
昨夜の酒の余韻など、まるで残っていない。
帰蝶は隣に控えている。
表情は柔らかいが、目は冷たい。
そこへ細川が通された。
細川は礼を尽くし、穏やかな笑みを浮かべた。
「昨夜は、無作法をいたしました」
信長は鼻で笑う。
「宴の席で無作法でない男など、つまらぬ」
細川は静かに頷いた。
「恐れ入ります。されど――昨夜の件、どうしても一言、申し上げたく」
信長の目が細くなる。
「申せ」
細川は少し間を置いた。
「玉殿を望む気持ちは、今も変わりませぬ。
ですが、殿が手元に置かれると申されるなら、無理にとは言いませぬ」
信忠が思わず前に出そうになる。
だが帰蝶が扇を軽く揺らし、信忠を制した。
(焦るな、信忠。口を挟めば相手の思う壺だ)
帰蝶の心の声が、冷たく響く。
細川は続けた。
「ただし……我が家は、殿に従い続けるためにも、織田との絆を明確にしたい」
信忠の胸がざわつく。
(来た……婚姻の形を変えてきたか)
細川は言った。
「玉殿ではなくともよい。
織田家より姫君を一人、我が家に」
信長は笑った。
「最初からそう言えばよいものを」
細川は深く頭を下げた。
「玉殿は、それほどの才でございましたゆえ」
その言葉が、玉の価値をさらに押し上げる。
帰蝶は微笑んだまま、心の中で吐き捨てる。
(上手い。玉を諦めたように見せながら、価値を天下に刻む。
細川……お前は本当に面倒だ)
信長は杯を取るように手を動かし、淡々と言った。
「婚姻の話は、追って考える。今は武田の残党処理が先だ」
細川は頷いた。
「もちろん。殿のお考えのままに」
細川は礼をし、退出していった。
その背中が消えた瞬間、信忠が口を開いた。
「殿……!」
信長は手を上げた。
「黙れ、信忠」
信忠の言葉が止まる。
信長はゆっくり言った。
「焦るな。
細川は玉を欲した。だが玉を取れぬなら、別の形で織田に食い込む。
それだけのことだ」
信忠は歯を食いしばる。
「ですが……玉を諦めたように見せて、名を広めた。
玉はさらに狙われます」
信長は笑った。
「だからこそ面白い」
信忠は息を呑んだ。
信長は続ける。
「玉は火だ。
火は燃えるほど明るくなる。
明るくなれば、虫が寄る」
信長の目が鋭くなる。
「虫を集めて焼くか、
虫に火を消されるか。
それを決めるのは――俺だ」
信忠の拳が震えた。
帰蝶はその様子を見て、心の中で思う。
(信忠。お前は優しすぎる。
殿は“守る”のではない。“使う”のだ)
そして帰蝶は静かに息を吐く。
(だが玉は、使われて終わる娘ではない。
私が育てれば……この火は、殿すら照らす)
その頃、玉は庭で朝の空気を吸っていた。
昨夜のことが夢のように思える。
だが夢ではない。
指先の震えはまだ消えていない。
そこへ、女中が急いで来た。
「玉様、帰蝶様よりお呼びでございます」
玉は胸が跳ねた。
呼ばれる、それは試される合図だ。
帰蝶の部屋。
玉が入ると、帰蝶は静かに座していた。
その横に、珍しく信忠がいる。
信忠は玉を見ると、少しだけ表情を和らげた。
帰蝶が言った。
「玉。細川が今朝、殿に会いに来た」
玉の顔色が変わる。
帰蝶は続けた。
「玉を諦めたように見せながら、玉の価値を言葉にして残した。
つまり、お前はさらに狙われる」
玉の指先が震えた。
信忠が口を開く。
「……心配するな。俺が守る」
その言葉に玉は息を呑む。
だが帰蝶は、すぐに信忠を制した。
「信忠、それでは足りぬ」
信忠が帰蝶を見る。
帰蝶は冷たく言った。
「守ると言うだけでは、守れぬ。
守る者が弱ければ、守られる者は死ぬ」
玉は固まった。
帰蝶は玉を見た。
「玉。お前は自分で守れ」
玉は震える声で言った。
「……どうやって」
帰蝶は扇を開いた。
「次の宴を用意しろ」
玉が目を見開く。
信忠が思わず言う。
「また宴を?危険です!」
帰蝶は笑った。
「危険だからやるのだ」
帰蝶の目が鋭くなる。
「細川は“引いた”のではない。
次の手を打つために、今は距離を取っただけ。
ならこちらも打つ」
玉は息を呑んだ。
帰蝶は続けた。
「お前が次に作る宴は、ただの料理ではない。
織田の娘としての立場を刻む宴だ」
玉の喉が鳴る。
帰蝶は言い切った。
「細川に奪われぬために、
お前自身が織田に深く根を張れ」
信忠が玉を見る。
その目には焦りと、守りたいという熱が混ざっていた。
「……玉」
玉は小さく頷いた。
怖い。
だが逃げれば終わる。
玉は震える手を握りしめ、答えた。
「……分かりました」
帰蝶が微笑む。
(よい。逃げない顔になった)
帰蝶は心の中で呟いた。
(玉。お前はもう姫ではない。
火だ。
燃えて、織田の城を守れ)
その夜。
明智光秀は一人、書状を読んでいた。
細川の動き。
信忠の動き。
信長の動き。
すべてが、昨夜の宴から連鎖している。
光秀は静かに目を伏せた。
(玉を手元に置けば置くほど、玉は火種になる)
そして小さく呟いた。
「……火は、扱う者をも焼く」
灯が揺れる。
光秀の影が、壁に伸びた。
(殿が火を楽しむ限り、
誰かが燃える)
光秀は筆を置いた。
そして静かに立ち上がる。
(私は……どこまで見ていればよい)
翌日。
城内ではすでに、次の宴の準備が始まりつつあった。
玉は廊下を歩きながら、胸の奥の恐怖を押し殺す。
細川は諦めていない。
むしろ狙いを定めた。
信忠は守ると言った。
帰蝶は、自分で守れと言った。
玉は小さく息を吐く。
(私は……火になった)
炭火は一度ついたら消えない。
なら燃えるしかない。
燃えて、照らして、
奪われぬために。
玉は歩みを止めず、前へ進んだ。
次の宴は、戦になる。




