第六十七話「宴の余熱、忍び寄る刃」
宴は再び笑い声を取り戻した。
杯が巡り、武将たちの声が戻り、
さきほどまでの緊張が嘘のように、広間はまた勝利の熱に包まれていく。
だが完全に元通りにはならなかった。
誰もが笑っている。
だが皆、胸のどこかで理解している。
今夜の宴は、祝勝だけでは終わらない。
玉は、まだ震えていた。
箸を持つ手は落ち着かず、膝の上に隠した指先が冷たい。
呼吸が浅くなるのを必死に押さえ、笑顔を作ることだけに集中する。
(……私は、ただ料理を出しただけなのに)
たったそれだけで、
自分が「嫁ぐべき駒」として扱われる。
その現実が、玉の喉を締め付けた。
帰蝶はその様子を、横目で見ていた。
玉は笑っているつもりだろう。
だが、目が揺れている。
(気づかぬと思ったか)
帰蝶は扇を閉じ、静かに酒を口に運ぶ。
(玉。お前は賢いが、まだ弱い。
弱さは隠しても滲む。滲めば、狙われる)
帰蝶は、ふと細川の方へ視線を送った。
細川は杯を傾けながら、
あたかも何事もなかったように笑っている。
しかし、その目だけが冷たい。
(あの男は引かぬ。今日断られたからといって諦める男ではない)
帰蝶は心の中で、短く笑った。
(……面倒な相手だ。だが、それでいい)
細川は信長に向かい、柔らかな声で言った。
「先ほどは失礼いたしました。宴の席で婚姻を口にするなど、無作法であったかと」
信長は笑ったまま杯を置く。
「よい。無作法でなければ面白くない」
細川は微笑む。
「さすが殿。器が広い」
その言葉に、周囲が笑う。
だが細川は続けた。
「ただ……織田が天下を目指すなら、細川の力も役に立つはず。
姫君一人で、世が変わるわけではない。だが姫君一人で、家は結ばれる」
信長は目を細めた。
「結ばれる家もあれば、縛られる家もある」
細川の笑みが、ほんのわずかに硬くなる。
信長は杯を傾けながら言った。
「欲しいなら、別の姫をくれてやる。玉は残す」
細川は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
だが、その声はあまりにも落ち着いていた。
帰蝶はそれを見て思う。
(……この男はまだ終わらせる気がない)
信忠は杯を持ったまま、玉の方を見た。
玉は目を伏せたまま、笑っている。
信忠はそれが耐えられなかった。
(この娘は、戦場で槍を持ったわけでもない。
それでも今、戦の真ん中に立たされている)
信忠はそっと、席を立った。
周囲が「どこへ」と目を向けるが、信忠は何も言わない。
そのまま広間を出ていった。
玉はその背中を見送り、胸がざわついた。
明智光秀はその動きを見ていた。
信忠の動き。
細川の笑み。
信長の軽い拒絶。
帰蝶の静かな観察。
そして――玉の震え。
光秀は杯を口に運びながら、心の中で結論を固める。
(この宴は終わったように見えて、始まったばかりだ)
光秀は静かに目を伏せた。
(細川が動く。
信忠が動く。
帰蝶が動く。
殿も動く)
そして、最後に思う。
(玉が動かされる)
それだけは避けねばならぬ。
光秀は何も言わず、ただ酒を飲んだ。
宴が終わった。
夜は深く、城内は静まり返っていく。
勝利の熱は消え、廊下には灯だけが揺れている。
玉は女中に支えられながら、部屋へ戻った。
足がまだふらつく。
扉を閉めた瞬間、玉はその場に座り込んだ。
「……怖かった」
声が震える。
自分が誰かに奪われる未来が、
今夜の言葉で現実になった気がした。
涙が出そうになるのを堪え、玉は唇を噛む。
その時。
襖の外から、控えめな声がした。
「玉。起きておるか」
玉は息を止める。
聞き覚えのある声。
帰蝶だった。
襖が開くと、帰蝶は一人で入ってきた。
女中も腰元も連れていない。
ただ帰蝶だけ。
灯の光がその横顔を照らし、
昼の華やかさとは違う、鋭い冷たさが浮かび上がる。
帰蝶は玉を見下ろし、静かに言った。
「泣くな」
玉は言葉を失った。
帰蝶は扇を畳んだまま、ゆっくりと座る。
「今夜、お前は勝った。
だが勝ったからこそ、お前は狙われた」
玉の喉が鳴る。
「……私は、ただ料理を」
帰蝶は遮った。
「違う。お前は宴を作ったのではない。
“殿の機嫌”を作ったのだ」
玉は目を伏せた。
帰蝶は続ける。
「細川は引かぬ。
今夜は引いたふりをしただけだ。
次はもっと巧妙に来る」
玉の身体が震えた。
帰蝶は玉の顎を指先で持ち上げ、目を合わせた。
「怯えるな。
怯えた顔を見せれば、あれは喰らいつく」
玉の目に涙が溜まる。
帰蝶は小さく笑った。
「……だが、信忠が言った。お前は隠し玉だと。
殿も手元に置くと決めた。
つまり今、お前は織田の宝だ」
玉は震える声で言った。
「宝など……私は……」
帰蝶は言い切る。
「宝だ。お前が望もうと望むまいと、そうなった」
そして帰蝶の目が細くなる。
「だから覚えておけ。
宝は、守られるが――自由ではない」
その言葉が玉の胸に突き刺さった。
帰蝶は立ち上がり、襖へ向かう。
「玉。次からは料理だけで勝つな。
言葉でも勝て。目でも勝て」
玉は顔を上げる。
帰蝶は振り返り、薄く微笑んだ。
「お前は火を扱った。
なら次は、人の心の火を扱え」
帰蝶は襖を閉めた。
静寂が戻る。
玉はその場で膝を抱え、呼吸を整えた。
その夜。
城の別の廊下で、信忠が一人、壁にもたれていた。
月明かりが顔を照らす。
そこへ足音が近づく。
「……信忠様」
明智光秀だった。
信忠は光秀を見て、低く言う。
「光秀。今夜の細川の言葉、聞いたか」
「はい」
信忠は拳を握った。
「あれは、奪う気だ。
あの娘を織田のために使うのではない。
細川のために縛る気だ」
光秀は静かに頷いた。
「私もそう見えました」
信忠は言った。
「守らねばならぬ」
光秀は、目を伏せた。
「守ることは、時に縛ることにもなります」
信忠は一瞬黙り、そして言う。
「それでもだ。
奪われるよりは、織田の中に置く」
光秀は静かに答えた。
「……殿も同じことを考えておられます」
信忠は眉をひそめる。
「殿は、玉を守るつもりか?」
光秀は少し間を置き、言った。
「守るというより……“手放したくない”のでしょう」
信忠の表情が険しくなる。
「それは守るとは違う」
光秀は何も言わなかった。
ただ月を見上げた。
(守るために縛る。縛るために守る。
その境目は、いつも曖昧だ)
翌朝。
玉の部屋に、早くから女中が入ってきた。
「玉様。帰蝶様よりお呼びでございます」
玉は目を開け、胸が跳ねた。
呼ばれる――それは命令。
そして試される合図。
玉はゆっくりと起き上がり、髪を整える。
そして、静かに呟いた。
「……私は、どうすればいい」
答えはない。
だが玉は知っていた。
昨夜の宴は終わったのではない。
婚姻の話が消えたのではない。
火種は消えていない。
むしろ――
炭の奥で、静かに燃え続けている。
玉は立ち上がった。
次の戦は、槍ではなく言葉で始まる。




