第六十六話「信忠の漢気」
細川の言葉が落ちた瞬間、広間の空気が変わった。
祝勝の熱が、急に冷える。
杯を置く音すら、誰も立てようとしない。
細川は穏やかに笑っていた。
「才ある娘を、我が家に迎えるのはどうかと――考えずにはおれませぬ」
その視線が玉に向いたまま、動かない。
玉は息呑んだ。
胸の奥が締め付けられ、指先が冷える。
箸を持つ手が、わずかに震えているのが自分でも分かった。
(……来た)
来ると分かっていた。
だが実際に言葉にされると、恐怖は想像より鋭かった。
この場で決まる。
決まってしまう。
そう思った瞬間、身体が固まった。
そのときだった。
「――異議あり」
低く、しかしはっきりとした声が広間に響いた。
信忠だった。
若き嫡男は席を立つわけでもなく、
だが背筋を正し、真っ直ぐに細川を見た。
「その娘は、織田家にとっての“隠し玉”」
ざわ、と空気が揺れた。
信忠は続けた。
「おいそれと差し出す娘ではありませぬ」
細川の目がわずかに細くなる。
周囲の武将たちが息を止める。
信忠はさらに言った。
「それだけではない。この娘は、私の命の恩人でもある」
玉は目を見開いた。
信忠は父、信長の方へ一度だけ視線を向け、
そして深く頭を下げた。
「殿にご相談もせず、このような言葉を口にしました。
しかしこれは私の独断にて申し上げたこと。どうかお許しを」
そう言いながらも、信忠の眼差しは揺れていない。
言葉は詫びている。
だが覚悟は、すでに刃のように抜かれていた。
帰蝶は、その様子を眺めて微笑んだ。
扇で口元を隠しながら、目だけが楽しげに光っている。
(……信忠。よく言った。やはりお前は、殿の血を引いている)
帰蝶の心は笑っていた。
(そして玉。守られるほど、お前の価値は上がる。
皮肉だが、これが世というもの)
信長は杯を持ったまま、ゆっくりと信忠へ視線を向けた。
「信忠」
その一声は穏やかだったが、広間を押さえつける力があった。
「口が過ぎるぞ」
信忠の表情が固くなる。
だが信長は、怒ってはいなかった。
むしろ、その目はどこか面白そうだった。
信長は続ける。
「……だが、言いたいことは分かる」
そして信長は細川を見た。
「細川。お前が玉を欲するのは理解できる。あれほどの宴を作り、場を支配する娘だ。並の姫ではない」
細川は口元を上げた。
「恐れ入ります」
信長は笑う。
「帰蝶も気に入っておる」
帰蝶は扇の陰で微笑みを深めた。
(殿……わざわざ言うか。だが、それでいい。
私が気に入っていると言えば、誰も軽々しく触れられぬ)
信長は言葉を続けた。
「それに――先の鎧の件もある」
その言葉に、光秀の目が一瞬だけ鋭くなる。
信長は淡々と、だが確信を込めて言った。
「この娘は、織田の手元に置いてこそ価値がある」
そして信長の心の内には、さらに冷たい計算があった。
(細川に出してしまえば、そこで終わる。
だが手元に置けば、もっと面白い。
あの娘は火だ。燃やし方次第で、天下を照らす)
信長は笑みを深める。
(この先、何を生み出すか……それを見ずに手放すほど、俺は愚かではない)
信長は杯を置き、細川に言った。
「婚姻なら、他の娘を当てがう。織田には姫などいくらでもいる」
細川の表情がわずかに揺れた。
信長はさらに言い放つ。
「そもそも、この場で決める話ではない」
それは一蹴だった。
否定ではない。
しかし細川の刃を折り、場を収めるには十分な言葉。
広間の緊張が、ゆっくりと解けていく。
武将たちが息を吐き、杯を取り戻した。
秀吉が無理に笑いを作る。
「ははは……まぁ、宴は宴でございますな!」
その声に、ようやく笑いが戻り始めた。
玉は、言葉が飛び交う間も震えが止まらなかった。
指先が冷たい。
心臓がうるさいほど鳴っている。
怖かった。
自分が「物」のように扱われ、
価値を測られ、欲しがられ、押し付けられそうになる感覚。
手が震えるのを抑えようとしても、抑えられない。
帰蝶は、その震えに気づいていた。
玉の肩が僅かに揺れ、視線が泳いでいる。
帰蝶は扇を閉じ、心の中で呟いた。
(怯えるな、玉。怯えた顔を見せれば、狩られる)
帰蝶の目が冷える。
(だが……そうだ。怯えて当然だ。お前はまだ若い。
この場は戦より恐ろしい。言葉が刃となり、女を切る)
帰蝶は静かに息を吐いた。
(安心しろ。今夜は私がいる。殿も信忠も、お前を手放す気はない)
そして薄く笑った。
(……それが幸せかどうかは、別の話だがな)
明智光秀は何も言わなかった。
だがその沈黙は、ただの傍観ではない。
光秀の視線は細川に向き、
次に信長へ向き、
そして最後に玉へ向いた。
杯を持つ指が、ほんのわずかに止まる。
(……細川に渡せば、玉は政治の道具として使い潰される)
光秀の心は静かに結論を出していた。
(この縁談は、織田にとっても危うい。
玉は武器だ。だが武器は、敵に渡せば刃となる)
表情は変えず、笑みすら浮かべたまま。
しかし光秀の内側だけが冷えていく。
(殿が手元に置くと言ったのは正しい。
だが それはそれで、別の火種を抱えることになる)
光秀は何も言わず、杯を口に運んだ。
沈黙の反対だった。
宴は再び笑い声を取り戻した。
だが玉だけは知っていた。
この宴は、祝勝会では終わらない。
今夜はただの始まりだ。
七輪の炭火が、ぱちりと音を立てた。
それはまるで、
次の戦の合図のように聞こえた。




