六十五話「 長篠の戦いの祝勝宴」
長篠の戦いが終わった。
武田の騎馬軍団を打ち破り、織田の名は一気に天下へ轟いた。
城内はすでに落ち着きを取り戻していた。
戦の血と鉄の匂いは薄れ、普段の気配が戻りつつある。
しかし、今宵の宴への期待と、その準備に追われる空気が城中を満たし、
廊下の隅々にまで張りつめた熱が漂っていた。
静けさの中にざわめきが混じり、
城内はどこか異様な雰囲気となっていた。
今夜はただの祝勝会ではない。
織田が天下へ踏み出したことを示す宴。
そしてそこへ細川が来る。
玉はそれを思うだけで、胸が落ち着かなかった。
玉は宴の準備が本格化する前に、帰蝶のもとを訪れた。
襖を開けると、帰蝶は静かに座していた。
城内の忙しさなど無関係に、凛とした空気をまとっている。
玉は膝をつき、深く頭を下げた。
「お願いがございます」
帰蝶は扇を持ったまま、目だけを向けた。
「申してみよ」
玉は一度息を整えた。
「宴の場に七輪を持ち込ませていただきたく存じます。火を扱いますゆえ、勝手にはできませぬ。殿にお伺いを立てていただけませんか」
帰蝶の眉がわずかに動く。
七輪――炭火を扱う小さな炉。
宴の場に火を持ち込むなど、武家の常識からすれば危うい。
だが玉の目は揺れていなかった。
帰蝶は扇で口元を隠し、微かに笑った。
(……面白い。宴を料理で支配する気か。小娘のくせに大胆だな)
玉はさらに言った。
「もし必要なら、女中や腰元を宴の場に付けていただきたく……皆の前で恥をかくことは避けねばなりませぬ」
帰蝶の目が細くなる。
(段取りも人手も、最初から計算している。……これは賢い)
帰蝶は小さく頷いた。
「殿に聞いてやる。ただし――粗相は許されぬぞ。火事でも出せば、お前の首だけでは済まぬ」
玉は深く頭を下げた。
「心得ております」
帰蝶は立ち上がり、襖を開けた。
(さて……殿は喜ぶか、それとも笑うか。だが勝ち戦の後だ。機嫌が良ければ必ず面白がる)
信長は大広間の準備を見下ろす場所に座し、席順と配置を眺めていた。
宴は勝利の余韻ではない。天下へ向けた示威だ。
帰蝶が近づくと、信長は目だけで気づく。
「帰蝶、何用だ」
帰蝶は淡々と告げた。
「玉が申しております。宴の場に七輪を持ち込み、火で料理を出したいと」
信長の目が一瞬光った。
「七輪……火を見せる宴か」
帰蝶は続ける。
「女中や腰元も付け、粗相なくやると申しております」
信長は鼻で笑った。
「よい」
即答だった。
「勝ち宴だ。武田を討った夜に、いつもの料理など要らぬ。派手にやれ」
帰蝶は静かに頭を下げる。
信長は杯を取りながら言った。
「だが伝えよ。失敗すればその場で恥だ。織田が笑われることは許さん」
帰蝶は微笑む。
「承知いたしました」
(殿はこうでなくては。危ういほど大胆で、だからこそ天下を掴む)
宴の刻が来た。
大広間には武田を討った織田の将たちが集まり、
勝利の空気が酒の匂いと混じり合っていた。
柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益。
羽柴秀吉は声高に笑い、杯を回して場を沸かせる。
客として迎えられた細川は、静かに座していた。
その笑みは柔らかいが、目は冷たい。
そして明智光秀もいた。
信長の近く、少し影になる位置。
宴の騒ぎに合わせて笑っているようで、その目は座全体を測っていた。
玉はその視線が一度自分に向いたことを感じ、背筋が伸びる。
(……この人は、宴を見ているのではない。人の心を見ている)
宴はまず、いつもの武家の料理で始まった。
干物、煮しめ、膾。
酒が運ばれ、武士たちは声を張り上げる。
「武田の赤備えも、ついに潰えた!」
「騎馬軍団も、鉄砲の前では無力よ!」
笑い声が天井を震わせた。
信長は上座で杯を掲げ、堂々と言い放つ。
「武田が滅びたのではない。織田が勝ったのだ」
家臣たちが声を揃える。
「ははっ!」
帰蝶は扇で口元を隠しながら、静かに笑った。
(勝てば吠える。武士とは単純だ。だが単純でなければ、戦には勝てぬ)
そのとき、料理が運び込まれた。
海の魚――ぶり。
大皿に盛られた照り焼きは、照りが強く、脂が光っている。
甘辛い香りが湯気とともに立ち上がり、広間の酒臭さを一瞬で塗り替えた。
武将たちが鼻を鳴らした。
「おお……こいつは良い匂いだ」
秀吉が真っ先に箸を伸ばす。
「おうおう!これが来るなら酒が進む!」
口に入れた瞬間、秀吉の顔が緩んだ。
「脂が乗っておる……!」
誰かが笑って言った。
「ぶりは出世魚よ!」
その一言で場が湧く。
「出世魚か!」
「武田を討った我らは、これよりさらに上へ行くぞ!」
柴田勝家が豪快に笑った。
「出世なら俺の腹が先だ!」
広間が笑いに包まれる。
信長もぶりを口に運び、ゆっくり噛んだ。
そして杯を置き、満足げに頷く。
「よい。戦の後にふさわしい。脂がある。力が戻る味だ」
信長の声が落ちるだけで、家臣たちの顔がさらに明るくなる。
帰蝶はその様子を眺め、心の中で思った。
(まずは照り焼きで濃い目の味付けを先に出したか?
これで皆の舌がほぐれる。……玉、順番が上手い)
細川も一口食べ、静かに言った。
「……これは良い。武家の宴らしい豪快さがある」
その言葉には、わずかな評価が混じっていた。
明智光秀は黙って箸を置き、信長の表情を見た。
(殿の機嫌は上々……今宵は何が起きても不思議ではない)
その時、広間の外がざわついた。
女中たちが何かを運び込む。
見慣れぬ器――七輪。
炭が赤く燃え、火の気配が広間に入り込む。
武将たちが一斉に顔を上げた。
「火を持ち込むのか?」
「宴で炭火とは……」
空気が張り詰めた瞬間、信長が笑った。
「よい。勝ち宴だ。火の一つも扱えぬようでは天下は取れぬ」
その一言で、場が一気に沸いた。
「さすが殿!」
「天下の宴よ!」
帰蝶は心の中で笑う。
(殿が許した。これで誰も文句は言えぬ。……さあ玉、ここからが本番だ)
次に運び込まれたのは、伊勢海老だった。
殻の姿は兜を被った武士のようで、堂々としている。
武将たちがどよめいた。
「これは……武者だな」
玉は静かに言った。
「武家の宴には欠かせぬ縁起物にございます。頑丈な殻、火を通せば鮮やかな赤。勝負運を呼び込むとされます」
「勝負運!」
その言葉だけで、杯が上がる。
玉は伊勢海老を七輪へ置いた。
殻が焼け、香ばしい匂いが立ち上がる。
ぱちぱちと油が弾ける音が、広間の笑い声と混じり合う。
柴田勝家が笑った。
「武田の首より、腹が喜ぶわ!」
秀吉が腹を抱える。
「勝家殿、正直すぎますぞ!」
信長は伊勢海老を手に取り、豪快に食べた。
そして明らかに機嫌よく笑った。
「よいぞ。赤い。武田の血より縁起が良い赤だ」
家臣たちが一斉に笑い、杯を打ち鳴らす。
帰蝶は扇で口元を隠しながら、心の中で呟く。
(殿がご満悦。これは大成功だ。……玉、お前は宴を作ったのではない。殿の機嫌を作った)
細川も伊勢海老を口にし、静かに頷いた。
「殻ごと焼くとは豪胆。織田らしい宴ですな」
光秀はその香りを吸い込み、目を伏せた。
(香りは記憶に残る。今日の宴は必ず語られる)
そして最後に出されたのが、一人用の鍋だった。
武将たちが驚きの声を上げる。
「一人ずつだと?」
「贅沢な……!」
鍋の中央には鯛の尾頭付き。
堂々たる姿で湯気を上げている。
汁は濁っていない。
味噌ではなく澄んだ出汁。
玉は言った。
「味噌ではなく、出汁にございます。鯛の旨みをそのまま引き出します」
さらに小さな器が添えられる。
「こちらは酸味のあるつけ汁。柑橘を絞り、醤と合わせました」
武将の一人が眉をひそめる。
「酸い汁を……?」
だが一口食べた瞬間、顔が変わった。
「……ッ、これは……!」
「魚が締まる!」
「酒を飲んでも口が重くならぬ!」
驚きと笑いが一気に広間を満たす。
信長も鍋を口にし、しばらく黙った。
そして杯を置き、短く言った。
「よい」
それだけで十分だった。
信長は続けた。
「武田を討った夜にふさわしい。腹が温まり、頭が冴える。こういう宴は……嫌いではない」
武将たちは一斉に声を揃えた。
「ははっ!」
帰蝶はその姿を眺め、心の中で微笑む。
(殿がここまで満足する宴は久しい。……玉、よくやった。だが成功すればするほど、お前は危うくなる)
細川は鍋を食べ終え、静かに杯を置いた。
「……なるほど。これは都の宴にも出ぬ。いや、都より上かもしれぬ」
その瞬間、広間がわずかに静まった。
細川の言葉は、ただの感想ではない。
宴の場で放つ政治の刃だ。
細川は信長に向き直る。
「信長公。武田を討っただけではなく、宴までも天下の形にされた。まさに天下人の席ですな」
信長は笑った。
「天下人の席だ。何か申したいことがあるなら言え、細川」
細川は微笑んだ。
「いえ、感服したまで。……ただ一つ思ったのです」
細川の視線が玉へ向く。
「このような宴を作り上げる娘が織田にいる。あれはただの姫ではない」
玉の喉が鳴った。
帰蝶の目が細くなる。
(来たな。細川……宴の頂で言葉を刺す。上手い。だが、それは私の前でやることではない)
明智光秀は杯を持つ手を止め、目を伏せた。
(細川が動いた。……この宴は祝勝では終わらぬな)
細川は言葉を続けた。
「才ある娘を、我が家に迎えるのはどうかと考えずにはおれませぬ」
空気が変わった。
笑い声が消え、杯を置く音すら控えられる。
宴が、祝勝の場から婚姻の戦場へ変わった。
信長は笑ったまま、静かに言った。
「ほう」
帰蝶は微笑んでいた。
だがその微笑みは、柔らかなものではない。
(玉。お前が作った宴で、お前自身が狙われた。……さて、どうする?)
七輪の炭火が、ぱちりと音を立てた。
それはまるで、次の火種が生まれた合図のようだった。




