第六十四話「嫡男の焦り」
細川がついに来た。
玉は廊下を歩きながら、心の中でその名を何度も繰り返していた。
(細川)
(細川が来た)
胸の奥が冷える。
指先が痺れるように冷たくなる。
これを防げば、未来は変わるのか。
いや、そんな簡単な話ではない。
父の謀反が消えるわけではない。
本能寺が消えるわけでもない。
それでも。
目の前の「嫁ぐ」という運命だけは、どうしても避けなければならない。
玉は俯き、足を止めた。
廊下の板間は冷たく、
遠くで城の者が走る音が響く。
細川の使者が来たというだけで、城の空気が変わった。
政治の匂いがする。
玉はそれが怖かった。
武士の刃よりも、
婚姻の一言の方が、よほど逃げ場がない。
(私は……駒じゃない)
(でも、駒としてしか扱われない)
玉の顔は暗く沈み、
涙までは出ないが、息が詰まる。
そのとき。
「……玉」
背後から、低い声がした。
玉の肩がびくりと跳ねる。
振り返ると、そこにいたのは信忠だった。
戦で泥を浴び、凱旋してなお、
背筋の伸びた嫡男。
その眼差しは冷静で、
しかし妙に人をよく見ている。
信忠は玉を見て、眉を寄せた。
「どうした。そんな顔して」
玉は慌てて頭を下げる。
「……何でもございません」
だが声は硬く、
顔もすぐには戻らなかった。
信忠は腕を組み、玉の顔をじっと見た。
「似合わないぞ」
その言葉が、玉の胸を刺した。
似合わない。
そう言われるほど、自分は普段は笑っているように見えていたのか。
それとも、気丈に見せていたのか。
玉は唇を噛む。
「……申し訳ございません」
信忠は溜息をついた。
「謝るな。理由を言え」
玉は言えなかった。
細川。婚姻。未来。
言えば終わる気がした。
玉は首を横に振った。
「……何でもありません」
信忠は一瞬、目を細めた。
(嘘だな)
だが、それ以上踏み込まなかった。
信忠はただ静かに言った。
「帰蝶様のところへ行く」
玉の心臓が跳ねた。
(え……)
信忠は踵を返し、迷いなく廊下を進んでいった。
玉はその背中を見つめたまま、立ち尽くす。
(……やめて)
(聞かないで)
だが止める言葉は出ない。
帰蝶の部屋。
信忠が入ると、帰蝶は茶を飲んでいた。
その表情は、いつも通りの穏やかさ。
信忠は座す前に言った。
「帰蝶様。玉が……妙な顔をしておりました」
帰蝶は湯呑を置き、目を細めた。
「ほう?」
信忠は言葉を続ける。
「泣きそうにも見えました。何かあったのですか」
帰蝶は一瞬だけ沈黙した。
そして、口元に笑みを浮かべた。
(……来たな)
帰蝶は、わざと軽い調子で言った。
「さあ。細川が来ているゆえ」
信忠の眉が動いた。
帰蝶は、さらに茶化すように続ける。
「婚姻同盟の話になるかもしれませぬな」
信忠の目が僅かに開く。
帰蝶は扇を持ち、涼しい顔で言った。
「相手は……玉の可能性もあるやもしれませぬ」
その瞬間。
信忠の顔色が変わった。
血の気が引くのが、はっきりと分かるほどだった。
帰蝶は内心、愉快だった。
(やはり)
(やはり、そうか)
信忠は声が掠れた。
「……玉が?」
帰蝶は微笑んだ。
「殿の考え次第です」
信忠は唇を噛み、目を伏せた。
帰蝶はそれを見ながら、確信する。
(信忠は、玉を手放したくない)
(あの鎧だけではない)
(もう心が動いている)
帰蝶はわざと追い討ちをかけた。
「もし殿が“行け”と仰せになれば、玉は断れぬでしょう」
信忠の拳が僅かに握られた。
帰蝶はさらに言う。
「玉は明智の娘。
細川と結べば、朝廷への道も太くなる」
信忠は顔を上げた。
その目に浮かんだのは、焦りと怒り。
そして、悔しさ。
信忠は絞り出すように言った。
「……玉は、岐阜で働いております。帰蝶様のもとで」
帰蝶は肩をすくめる。
「だからこそ価値があるのでしょう」
信忠の顔色はさらに悪くなった。
帰蝶は心の中で小さく笑う。
(嫡男よ)
(焦る顔も、悪くない)
帰蝶は表向き、ただの冗談のように言った。
「殿は、便利なものは手放さぬ。
だが、政に必要なら差し出すこともある」
信忠は沈黙した。
その沈黙は、嫡男としての誇りが耐えている沈黙だった。
だが帰蝶は知っている。
今の信忠は、嫡男の立場ではなく、
一人の男として玉を見ている。
帰蝶は心の中で思った。
(信忠が動けば、殿も無視できぬ)
(玉を細川へ出すか、岐阜に残すか)
(その選択は、殿の機嫌ひとつだが……)
帰蝶は扇の陰で微笑んだ。
(信忠の焦りは、殿の心を揺らす)
(そして玉は……また未来を動かす)
帰蝶は、信忠を見つめながら心の中で呟いた。
(さあ、嫡男)
(お前はどう動く?)
信忠の額には、薄く汗が滲んでいた。
戦場で汗をかく男が、
政治の一言で顔色を変える。
それが帰蝶には、可笑しくて仕方がなかった。
そして同時に、確信していた。
――玉は、もうただの下働きではない。
織田家の未来を揺らす火種になり始めている。




