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細川ガラシャになる前の明智玉でした。父の謀反を止めないと私が燃えるので必死です  作者: れんれん


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第六十二話「凱旋」

長篠の戦場に残った煙が、ようやく風に流され始めた頃。

織田の軍は、勝者の列となって岐阜へ戻ってきた。


旗が揺れる。

槍が並ぶ。

鎧の金具が陽を弾く。

だが、その帰還は華やかさよりも――重かった。


勝った。

勝ったのに、空気が軽くない。

それは誰もが知っているからだ。

勝利とは、死の上に立つものだと。


岐阜城下。

民は道の両側に集まり、声を上げた。

「殿が戻られた!」

「織田様が勝たれたぞ!」

「武田を退けたぞ!」

歓声は確かにあった。

だが、声の奥には恐れも混じっていた。


勝った軍の姿が、あまりにも疲れ切っていたからだ。


血の匂いがまだ残る。

泥が乾ききっていない。

具足には刃の痕がある。

戻ってきた兵たちの目は、遠くを見ている。

まだ戦場から帰れていない者の目だった。

信長は馬上で岐阜の城を見上げた。

その目に疲労はない。


あるのは、冷えた昂揚。

(勝った)

(武田は折れた)

(次は……)

信長は、勝利の後ですら次の獲物を探す獣だった。


城門が開く。

城の者が伏し、道が開ける。

信長は馬を進めながら、自然と視線を動かした。


信忠。

嫡男は隊列の中にいた。

そして例の地味な甲冑。

戦場の泥を吸い、さらに黒く見える。

だが、折れていない。


信長は鼻で笑った。

(あれは守ったか)

(使える)

それだけで満足だった。

信長は息を吐く。

「帰蝶は、喜ぶか」

誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。


城の奥。

帰蝶は広間に座し、帰還を待っていた。

周囲は忙しく動いている。

湯を用意する者。

衣を整える者。

酒を運ぶ者。

だが帰蝶は動かない。

表情も崩さない。

ただ、静かに耳を澄ませていた。


板間を踏む足音が増える。

馬のいななき。

門の軋み。

(戻ったな)

帰蝶は胸の内でそう呟く。

戦が終われば、勝者の顔が見られる。


信長の優越。

家臣たちの安堵と恐怖。

帰蝶にとって、それは一種の娯楽だった。

だが、その中に別の感情が混じる。


玉。

あの娘は、今朝からずっと静かだった。

勝利を祝う気配もなく、

ただ、いつも以上に手を動かしていた。

料理の段取り。

湯の準備。

茶の支度。

無駄がない。

だが、目が落ち着かない。


帰蝶は、玉の横顔を見つめながら思った。

(この娘は、戦が嫌いだ)

(だが、この娘は戦を止められぬことも知っている)

そして

(信忠が生きて戻れば、きっと胸を撫で下ろす)


帰蝶は、玉の胸の奥に芽生えたものを察していた。

恋かどうかはまだ分からない。

だが確実に、ただの計算ではない。

守りたいと思う心。

それが、玉を弱くも強くもする。


帰蝶は静かに息を吐いた。

(面白い)

(だが、危うい)

玉は、城の廊下の奥で音を聞いていた。

歓声。

足音。

門が開く音。

(……帰ってきた)

その瞬間、胸が締め付けられる。

(勝ったはず)

(勝ったはずなのに)

手が冷たくなる。


玉は自分に言い聞かせる。

(私は女)

(ここから先は、出番はない)

そう思ったのに。

信忠の顔が浮かぶ。

あの鎧を着けた姿が浮かぶ。

(生きて……)

(戻ってきて……)

玉は唇を噛んだ。

(私は、何を祈っているんだろう)

歴史を変えるためではない。

父を守るためでもない。

ただ――信忠が傷つかずにいてほしい。

その願いが、自分の中にあることが怖かった。


やがて信長が広間へ入る。

板間を踏む足音。

畳に入る直前で止まり、草履を脱ぐ気配。

それだけで空気が変わる。

帰蝶は、いつも通り微笑んだ。

「お帰りなさいませ、殿」


信長は短く答える。

「戻った」

それだけ。

だが信長の口元には、勝者の余裕があった。

帰蝶はその表情を見て、心の中で笑う。

(楽しい男だ)

(勝てば勝つほど、欲が増す)

信長は座し、酒を口に含む。

そして何気なく言った。

「信忠は、よくやった」


帰蝶は目を細めた。

(あの子が生きて戻った)

(玉は、今、何を思っている)

帰蝶は視線を少しだけ玉へ向けた。

玉は顔を伏せていた。

だが、その肩がほんの僅かに緩んでいる。


安堵。

それが見えた。

帰蝶は胸の内で確信する。

(……守ったな)

(胸当て一枚が)

信忠は遅れて広間へ入ってきた。

戦場の匂いをまだ纏っている。

顔には泥が残り、髪も乱れている。

だが、目は澄んでいた。


そして、あの地味な甲冑。

信忠が入った瞬間、玉の指がわずかに止まった。

帰蝶はそれを見逃さない。

信忠は信長の前に膝をつき、淡々と報告した。

「武田は崩れました。追撃も成功しております」


信長は短く頷く。

「よい」

そして信長は、信忠の甲冑を見て鼻で笑った。

「その地味な鎧、役に立ったか」

信忠は少しだけ目を伏せた。

「……はい」

その答えは短い。

だが、そこには妙な温度があった。


帰蝶は微笑んだ。

(あの子も、少し変わったな)

玉は息を殺していた。

信忠が生きている。

血に染まりながらも、生きて帰ってきた。

それだけで胸が痛いほど満たされる。

(良かった)

(良かった……)

だが同時に、胸が苦しくなる。

(私は……)

(こんなことで安心している)

戦で人が死んだ。

赤備えが砕けた。

百姓兵が逃げ惑った。

それを知っているのに。

それでも――自分は信忠の無事を喜んでいる。


玉は、自分の心の醜さに気づき、俯いた。

(私は、結局……)

(誰か一人の命を優先してしまう)

その瞬間、帰蝶の声が落ちた。

「玉」

玉ははっと顔を上げた。

帰蝶は柔らかく言った。

「湯を用意せよ。

殿も、信忠も……疲れておられる」


玉は小さく頭を下げる。

「はい」

その声は、震えなかった。

だが胸の奥は、震えていた。

凱旋。

それは勝利の帰還であり、

同時に次の戦の始まりでもある。


信長の目は、すでに次を見ている。

信忠の胸には、玉の気配が残っている。

帰蝶はそれを楽しみ、危うさを嗅ぎ取っている。

そして玉は知った。

胸当て一枚は、確かに命を守った。

だが同時に――

自分の心の一部も、確かに戦へ持って行ってしまったのだと。

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