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細川ガラシャになる前の明智玉でした。父の謀反を止めないと私が燃えるので必死です  作者: れんれん


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第六十一話「赤備え、砕ける」

長篠の戦いが始まった。


空は低く、湿り気を含んだ風が戦場を撫でていた。

草は踏み荒らされ、泥は重く、馬の蹄は音を吸い込む。

それでも武田の赤備えは揺るがない。


赤い具足。赤い旗指物。

その列は、血の川のように整然としていた。

織田の陣から見ても圧がある

あれが突っ込んでくれば、並の兵は足が竦む。


信長は馬上からその赤を見下ろし、口元を僅かに歪めた。

「来るぞ」

ただそれだけ。

だがその声は、恐怖ではない。

期待の響きを含んでいた。


最初に動いたのは、鉄砲隊ではなかった。

織田陣の後方。

静かに隠されていた小型の投石機が、一斉に角度を変えた。

腕がしなり、重りが落ちる。

――ギギ……ッ。


次の瞬間。

轟音と共に、黒い影が空へ放たれた。

焙烙玉。

火薬を詰めた陶器が、弧を描き――武田の隊列へ落ちる。

着弾。

一瞬の静寂の後、爆ぜた。

――ドンッ!!

土が舞い、煙が広がり、鉄片が散った。

武田の兵が叫び声を上げる。

「うわぁぁっ!!」

「何だこれは!」

「火だ!火が――!」

二発、三発。

煙が視界を奪い、爆音が耳を潰す。

隊列は乱れた。

特に、前方に混じっていた百姓兵が耐えられない。


武具の貧しい者ほど、火薬の恐怖に弱い。

「退け!退けぇ!」


恐慌が走り、戦列を離れる者も出た。

だが。

赤備えは違う。

赤備えの武将たちは叫ぶ。

「怯むな!!」

「武田の名を忘れたか!」

「突け!突けぇぇ!!」

彼らは崩れない。


煙の中を突っ切り、血のような赤が前へ進む。

その突進は、まさに獣の奔流だった。

信長はその様を見て、目を細めた。

(さすがだ)

(あれが武田だ)

だが、信長の口元は笑っていた。


そして扇を掲げる。

「鉄砲――構え!」

鉄砲隊が前へ出る。

火縄が灯される。

信長の声が響く。

「撃て!」

――バンッ!!

乾いた音が戦場を裂いた。

一列目が撃つ。

すぐさま退き、二列目が前へ。

「撃て!」

――バンッ!!

三列目が前へ。

「撃て!」

――バンッ!!

間断なく続く轟音。

煙が厚くなる。

火薬の匂いが鼻を刺す。

武田の赤備えが、次々に倒れた。

突撃の勢いは削がれ、馬が転び、兵が地に沈む。

赤い具足が泥に埋まり、赤い旗が折れる。

それでも赤備えは止まらない。

倒れながらも前へ出る。

だが――

銃弾は容赦なく肉を裂いた。


武田の精鋭でさえ、間断なく撃たれる鉄砲の雨には抗えない。

「ぐっ……!」

「武田ぁぁ!!」

悲鳴が重なり、戦場が赤と黒に染まっていく。


その乱戦の中に、信忠がいた。

嫡男でありながら、前線に出る男。

信忠は馬上で剣を抜き、兵を鼓舞する。

「押せ!」

「ここで止まるな!」

信忠の目は冷たい。

恐怖がないわけではない。


だが恐怖を顔に出すほど、若くはなかった。

(三段撃ちは効いている)

(だが、武田は引かぬ)

信忠は理解していた。

武田は突撃で勝つ軍。

引けば負ける。

だから引かない。

ならば――押し潰すしかない。


信忠は叫んだ。

「我に続け!」

槍隊が動く。

刀を抜く者が増える。

そして信忠自身が、突進した。

武田の兵が信忠へ斬りかかる。

「織田ぁぁ!!」

刃が振り下ろされる。

だが信忠は、避けない。

――ガンッ!!

鈍い音。

刀が弾かれた。


武田の兵が目を見開く。

「な……っ!?」

信忠はその隙を逃さない。

一閃。

血が飛び、武田の兵が倒れた。


次。

槍が突かれる。

信忠は体を捻り、胸を僅かに逸らす。

槍先が滑る。

鎧の曲面が刃を逃がす。


信忠の目が細くなる。

(効いている)

(玉の胸当ては……生きている)

信忠は胸の奥が熱くなるのを感じながらも、すぐに押し込めた。

戦場で情に溺れれば死ぬ。

信忠はただ前へ進む。

縦横無尽。

刀を恐れず、刃を受け流し、斬る。

斬って、斬って、斬る。


武田の兵が畏怖し始めた。

「こいつ……!」

「刃が通らぬ!」

「鬼か……!」

武田の兵が一歩退く。

退けば、隊列が崩れる。

崩れれば、恐怖が伝染する。

赤備えでさえ、動揺が走った。


信忠は心の中で呟いた。

(俺が恐れれば、皆が恐れる)

(ならば俺は、恐れぬ顔で斬る)

(それが嫡男の務めだ)

そしてもう一度、叫んだ。

「押せぇぇ!!」


その光景を、信長が見ていた。

馬上から。

信長は戦場を支配するように眺め、

三段撃ちの成果に満足していた。

(武田は折れる)

(折れぬなら、折るまで叩く)

信長は扇を掲げる。

「全軍――突撃!!」

その声は雷のようだった。

織田の軍が一斉に動く。


足軽が走り、槍が並び、旗が揺れる。

武田の隊列はさらに崩れた。

そして信長は、ふと視線を動かした。


信忠。

信忠が、敵の刀を気にすることもなく斬り進んでいる。

相手の刃が弾かれるたびに、武田の兵の顔が青ざめる。

信長は口元を吊り上げた。

(……なるほど)

(あの地味な鎧か)

信長はニヤリと笑い、短く言った。

「使えるな」

それは褒め言葉だった。


信長にとって最高の評価は、

「美しい」でも「勇ましい」でもない。

――使える。

その一言で、全てが決まる。

戦いは終わった。

武田は崩れ、撤退し、追撃が始まる。

赤備えは砕けた。

鉄砲の煙が晴れた戦場に残るのは、泥と血と、折れた旗。

織田の勝利だった。


信長は馬を進めながら、戦場を見渡す。

(これで武田は終わる)

(天下が近づいた)

そして信長の脳裏に、ふと一つの名が浮かんだ。

――玉。

帰蝶の傍にいる、あの娘。

(あれは面白い)

信長は笑った。

勝利の煙の中で、

新しい火種が、確かに芽吹いていた。

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