第五十九話「冷たい鋼、温かい心」
信忠は廊下の端で、玉が抱えていた布包みを受け取った。
「……何だ、これは」
玉は一歩引き、なるべく平静を装う。
「鍛冶場にて、試しに作らせたものにございます。
もしお目汚しでなければ……」
信忠は答えず、布をほどいた。
現れたのは黒ずんだ鋼。
飾りも、家紋もない。
磨きも粗い。
第一印象は、正直――みすぼらしかった。
「……粗末だな」
信忠の口から漏れた言葉は、率直だった。
玉の胸がひゅっと縮む。
だが信忠は、玉の表情を見て嘲ることもせず、ただ手に取った。
ずしり、と重い。
(重い……が、薄い)
信忠は指で縁をなぞった。
曲面になっている。
不格好ではあるが、意図がある。
次いで、指で軽く叩く。
――コン。
乾いた音。
鉄の響きだ。
信忠の目が、僅かに変わった。
(鋼……?)
(いや、良い鋼だ)
「玉。これを作らせたのか」
玉は頷く。
「はい……」
信忠はもう一度、胸当てを持ち上げ、角度を変えて光に透かした。
薄い。
だが薄すぎない。
刃が滑るように、なだらかな曲面。
矢も、正面からなら弾く可能性がある。
(……これは)
(飾りではない)
信忠は小さく息を吐き、玉を見た。
「お前は……妙なことを考える」
玉は焦って言い訳を探す。
「たまたま……武具を見て、もし胸を守るものがあればと……」
信忠はそれ以上聞かなかった。
「よい。持って行く」
玉は目を見開く。
「……え」
信忠は淡々と答えた。
「試す」
その言葉が、妙に頼もしかった。
信忠は自室へ戻ると、すぐに家臣を呼んだ。
「藁人形を用意しろ」
「それと、古い刀でいい。斬れるものを」
家臣は首を傾げたが、命に逆らわず用意した。
藁人形が据えられる。
その胸に、玉から受け取った胸当てを紐で固定する。
信忠は腕を組み、じっと見た。
(玉が……俺にくれた物)
(あの娘が、わざわざ金を払ってまで)
その考えが浮かぶと、胸の奥が少しだけ熱くなった。
だが、信忠は感情を押し込めた。
戦の前に必要なのは、確かさだ。
信忠は刀を抜く。
刃が光った。
そして、迷いなく振り下ろした。
――ガンッ!!
鈍い衝撃音が部屋に響いた。
刀の刃は、弾かれた。
斬れない。
むしろ、刃の方が跳ね返される。
信忠の目が僅かに開く。
「……ほう」
信忠は角度を変え、もう一度。
――ガンッ!!
また弾く。
刃が滑り、鋼板の曲面に沿って逃げた。
信忠は思わず口元を歪めた。
笑みとも、驚きともつかぬ表情。
(……これは有効だ)
(胸を守る)
(致命傷を防ぐ)
信忠は刀を鞘に戻し、次のことを考えた。
矢だ。
(矢はどうだ)
だが試すのは難しい。
この場で弓を引けば危険だ。
信忠は胸当てに残った刃の痕を指でなぞった。
浅い。
ほとんど削れていない。
(矢も、貫通はしないだろう)
(……いや、貫通しない可能性が高い)
信忠は家臣に命じた。
「ここ、矢傷を受けたと見せるなら直さねばならぬな」
「鍛冶に回せ。補修しておけ」
家臣は驚いた顔で頷いた。
「はっ……!」
信忠は藁人形を見つめたまま、胸の奥に湧いた感覚を噛みしめた。
(玉は……)
(俺を守ろうとしたのか)
嫡男という立場は、誰もが丁重に扱う。
だがそれは、命を案じる優しさではなく、利のための敬いだ。
玉の行動は違う。
飾りもなく、言葉も少ない。
ただ、胸当て一枚。
それだけで十分だった。
信忠は知らぬ間に、手のひらで鋼を軽く叩いていた。
冷たいはずの鋼が、妙に温かく感じる。
信忠はぽつりと呟く。
「……馬鹿な娘だ」
だがその声には、嫌悪も軽蔑もなかった。
むしろ、確かな温度が混じっていた。
(この戦国で)
(誰かが俺の命を気にして動くなど)
(久しくなかった)
信忠は胸当てを抱え、静かに目を閉じた。
そして、胸の内で決める。
(礼をせねばならぬ)
(必ず)
藁人形の胸で鈍く光る鋼は、
ただの武具ではなくなっていた。
信忠の中に、確かに「玉」という名が沈み込む。
戦の道具よりも深く。
心の、柔らかい場所へ。




