第五十八話「胸当て一枚」
岐阜城の裏手には、城の華やかさとは別の匂いがあった。
鉄と炭。
汗と油。
火の熱。
玉はその匂いを嫌いではなかった。
むしろ、ここには嘘がない。
火は熱い。
鉄は重い。
人の手は、正直に疲れる。
城の言葉よりも、ずっと分かりやすい世界だ。
玉は、厨で知り合った鍛冶職人の男――皆が「弥助の親方」と呼ぶ年嵩の男の工房を訪ねた。
親方は、炉の前で槌を振るっていた。
火花が散り、鉄が鳴いた。
「……親方」
玉が声をかけると、男は槌を止め、汗を拭いながら振り向いた。
「おお。玉か。珍しいな」
玉は一礼し、すぐに言葉を探した。
(言い方を間違えたら、笑われる)
(いや、笑われるくらいならいい)
(怖いのは、聞かれすぎること)
玉は息を整えた。
「……お願いがございます」
親方は眉を上げる。
「ほう。嬢ちゃんが鍛冶場に来て“お願い”とはな。聞こう」
玉は袖の中から紙を取り出した。
簡単な図が描かれている。
胸当て。
滑らかな曲面。
紐で締める構造。
内側に重ね布を入れる案。
親方はそれを受け取り、目を細めて眺めた。
「……ほお」
声が低くなる。
玉は慎重に言った。
「こういう……胸を守るものを作れますでしょうか」
親方は紙を指で叩き、炉の火を見た。
「作れるか、作れねぇかで言えば――作れる」
玉の胸が少し軽くなる。
だが親方はすぐに続けた。
「ただし、鋼を薄く伸ばすのは難しい」
玉は頷いた。
「……はい」
親方は顎を撫でる。
「薄くしすぎれば割れる。
厚くすりゃ重くて動けねぇ。
曲面に仕上げりゃ手間も倍だ」
そして玉を見た。
「嬢ちゃん、これ……武具だぞ」
玉の喉が鳴る。
「……はい」
親方は少し笑った。
「鋼を薄く伸ばすのは難しいが、できぬことはない」
その言葉は、鍛冶場の火より熱く玉の胸に落ちた。
玉は思わず、声が少し弾んだ。
「では……!」
親方は片目を細める。
「だが、金がかかる。
良い鋼が要る。
鍛える時間も要る」
玉の顔が引き締まった。
(……来た)
(問題はここだ)
親方は腕を組み、値を告げた。
「嬢ちゃんの給金、全部飛ぶぞ」
玉の息が止まった。
頭の中で、今まで貯めてきた銭が浮かぶ。
小さな袋。
少しずつ。
少しずつ。
それは、玉にとって命綱だった。
何かあった時の逃げ道。
何かあった時の備え。
それを――全部。
親方は玉の顔をじっと見ている。
試すように。
鍛冶の世界の目で。
玉は俯いた。
(全部使ったら、私は無防備になる)
(でも……)
ふと、信忠の顔が浮かんだ。
あの静かな目。
燃えるような父とは違う、冷たい理。
それでも、兵を気遣い、粥を配った背中。
(あの人は……)
(死なない)
玉は歴史を知っている。
信忠は本能寺で死ぬ。
その未来を、玉はまだ確信として抱いていない。
だが、どこかで感じている。
(傷ついてほしくない)
(血を流す姿を見たくない)
理由はそれだけで十分だった。
玉は顔を上げた。
「……お願いいたします」
親方が目を丸くした。
「本気か」
玉は小さく頷いた。
「本気です」
親方はしばらく黙り、やがて炉の火を見つめた。
「……分かった。やってやる」
玉の胸の奥が、じんと熱くなる。
「ただし、嬢ちゃん。
これは一度作れば終わりじゃねぇ。
試作だ。失敗するかもしれん」
玉は即答した。
「それでも構いません」
親方は鼻で笑った。
「……変な嬢ちゃんだ」
だがその声には、少しだけ優しさが混じっていた。
それから数日。
玉は鍛冶場へ通うことはせず、ただ待った。
目立たぬように。
噂にならぬように。
だが心は落ち着かなかった。
夜になると、炉の火を思い出す。
鉄の匂いを思い出す。
そして信忠の顔を思い出す。
(これでいい)
(これでいいはず)
そう言い聞かせても、胸の奥がざわついた。
完成したのは、十日ほど経った頃だった。
親方が小者を通して呼びに来た。
玉は胸が高鳴るのを抑えながら鍛冶場へ向かった。
親方は無言で、布に包んだものを差し出した。
「……ほら」
玉は両手で受け取った。
包みを解いた瞬間、金属の匂いが立った。
黒みがかった鋼鉄。
滑らかな曲面。
胸を守る形。
玉は思わず指で触れた。
冷たい。
そして――重い。
想像以上だった。
(……重い)
(これを着けて戦うのか)
玉は唇を噛んだ。
親方は玉の反応を見て、低く言った。
「薄くした。だが薄すぎりゃ割れる。
曲面にした。矢を滑らせるためだ」
玉は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
親方は手を振った。
「礼はいらねぇ。金は貰った」
玉は胸当てを抱きしめた。
冷たさが、腕に伝わる。
だがその冷たさが、妙に安心を与えた。
(これなら……)
(少しは守れる)
玉は工房を出ると、城へ戻りながら考えた。
問題は――ここからだ。
(どうやって渡す)
(信忠様に直接……?)
無理だ。
そんなことをすれば、理由を問われる。
「なぜお前が武具を作った」
「誰に頼んだ」
「何のためだ」
問われれば、終わる。
玉は足を止め、空を見上げた。
(偶然を装うしかない)
(自然に渡せる場面を作る)
信忠が通る廊下。
稽古場。
兵の見回り。
玉はその動線を思い浮かべた。
信忠は、必ず兵の様子を見に行く。
必ず、武具にも目を向ける。
ならば。
玉は胸当てを布に包み直し、抱えた。
(落とし物のように)
(拾ったように)
(試作を頼まれたように)
言い訳は考えればいい。
玉は小さく息を吐いた。
(怖い)
(でも……)
胸の奥に浮かぶのは、信忠の目だった。
あの人に、傷を負ってほしくない。
それは歴史を変えるためではない。
未来のためでもない。
ただ、今の玉の心がそう望んだ。
玉は布包みを抱きしめ、歩き出した。
岐阜城の廊下は、静かだった。
その静けさの中で、玉は決めていた。
――信忠に、偶然を装って差し出す。
胸当て一枚に、
自分の全てを賭けるつもりで。




