第五十六話「火薬の先」
岐阜城の朝は、いつもより慌ただしかった。
廊下を走る足音。
小者の声。
板間を踏む音が、絶えず続く。
「明智殿が呼ばれた」
「殿が兵站の話を聞くそうだ」
その噂は、城の隅々まで瞬く間に広がった。
玉は帰蝶の部屋で湯を沸かしながら、胸の内を落ち着かせようとしていた。
(父上が……岐阜へ)
兵站を任されるということは、
戦場で槍を振るうより危険が少ない――そう思いたい。
だが玉は知っている。
戦において最も狙われるのは、
「兵」ではなく「腹」だ。
補給が絶えれば、軍は勝手に崩れる。
つまり兵站を握る者は、軍の喉を握る者でもある。
(父上は危ない)
その事実が、胸に刺さった。
玉はふと、前世の記憶を辿る。
長篠。
教科書の一文でしか知らない。
「三段撃ち」
「武田の騎馬隊」
赤備えの強さも、書物の挿絵で見ただけだ。
(赤備えは、突撃が恐ろしい)
(あの勢いに飲まれたら……)
玉は手を止め、静かに息を吐いた。
勝つ未来は知っている。
だが、どれほど血が流れるかは分からない。
(味方の被害を減らせる手段があるなら)
(私は……それを渡したい)
玉の頭に浮かんだのは火薬だった。
鉄砲だけではない。
火薬は破裂する。
花火と同じだ。
(爆ぜるなら、中身を変えればいい)
破裂の瞬間に飛び散るものを入れれば、
ただの爆音では終わらない。
釘。鉄片。小石。
それらが飛べば、敵の陣は乱れる。
そして、そこへ煙。
視界が奪われ、音に怯え、隊列が崩れる。
(殺すためじゃない)
(混乱させるため)
混乱した軍は、突撃できない。
突撃できなければ、強さは半分になる。
玉は紙を引き寄せ、筆を取った。
丸い陶器。
火薬。
導火線。
中に鉄片。
さらに投石機の図。
支点。
腕。
重り。
そして、放つ角度。
(投石機は難しくない)
(仕組みは単純)
(作れる人がいるはず)
玉は夢中で筆を走らせた。
書きながら、胸が冷たくなった。
(私は……何をしているんだろう)
(子供が戦の道具を考えるなんて)
だが次の瞬間、玉は歯を食いしばった。
(戦はもう始まっている)
(止められないなら、終わらせるしかない)
玉は図面を描き終えると、丁寧に折り畳み封をした。
そして小者を呼び、低い声で頼んだ。
「父上へ。必ず。必ずお渡しして」
小者は頷き、包みを懐へしまった。
玉はその背を見送りながら、胸の奥で祈った。
(間に合って……)
数日後。
光秀は岐阜へ向かっていた。
信長からの召し。
兵站の仕組みを詳しく説明せよ――その命だった。
光秀の心は落ち着いているようで、落ち着いていなかった。
信長に呼ばれるのは誉れ。
だが、誉れは刃でもある。
信長は賢い者を使う。
そして賢い者を疑う。
岐阜城に入ると、光秀はすぐに広間へ通された。
信長は座していた。
その目は、獣のように鋭い。
「十兵衛」
光秀は膝をつき、深く頭を下げた。
「はっ。参上いたしました」
信長は短く言った。
「兵站。口で言え」
光秀は息を整え、語り始めた。
火薬の湿気対策。
樽の密閉。
漆と蝋。
油紙、渋紙。
石灰と木炭。
そして補給の要。
「殿。補給は一度で終えるものではございませぬ」
信長の眉が動く。
光秀は続けた。
「火薬、兵糧、弓、矢を一組とし、
それを絶え間なく回します」
「一つの荷駄が潰されても、次がある。
次が潰されても、その次がある」
「補給を“流れ”として作れば、
敵が道を断とうとしても、軍は止まりませぬ」
信長は扇を閉じた。
「……血管か」
光秀は頷いた。
「はっ。軍の血管にございます」
信長はしばし沈黙し、短く言った。
「よい」
その一言で、広間の空気が固まった。
信長は立ち上がり、家臣に命じた。
「兵站は明智に任せる」
光秀は深く頭を下げた。
「はっ」
信長はさらに言った。
「十兵衛。
戦は勝て。
勝てばそれでよい」
光秀はその言葉の冷たさを、背中で受けた。
(勝てばそれでよい)
その「勝ち」の裏に、何が積み上がるかを、信長は問わない。
光秀は礼をして退出した。
廊下へ出た瞬間。
小者が駆け寄り、包みを差し出した。
「明智様!玉様より……!」
光秀は息を呑んだ。
包みを開くと、折り畳まれた図面。
焙烙玉。
投石機。
火薬。導火線。鉄片。
光秀の目が止まった。
(……玉)
(まただ)
(お前は、どうしてここまで……)
背筋が冷えた。
畏怖。
だが次の瞬間、胸の奥が熱くなる。
(これは……守りではない)
光秀は理解した。
遠距離から撃てば、敵の隊列を崩せる。
爆音と煙で恐怖を植え付けられる。
敵を殺す前に、敵を乱す。
突撃の足を止める。
隊列を崩す。
指揮を奪う。
(攻めのための火薬だ)
光秀は図面を握りしめ、踵を返した。
詰所へ向かう。
兵站の者だけに知らせるのでは足りない。
これは戦全体に関わる。
光秀は家臣を呼び寄せ、低く言った。
「これを作る」
家臣が図面を覗き込み、顔色を変えた。
「明智様……火薬兵器……!」
光秀は言った。
「投石機を組め。小型でよい。
運べるものだ。
戦当日、先陣に持たせる」
「敵が隊列を整える前に撃つ。
敵の突撃が始まる前に撃つ」
「爆音と煙で混乱させ、足を止めさせる」
家臣は息を呑み、頷いた。
「はっ……!」
光秀はさらに命じた。
「火薬の扱いは最優先で慎重に。
導火線は距離を計れ。
湿気対策は徹底せよ」
「作る者は選べ。口の堅い者のみ。
これは秘中の秘だ」
家臣たちは一斉に動き出した。
その時だった。
廊下の影から、静かな声が落ちた。
「明智」
信忠だった。
光秀はすぐに膝をついた。
「信忠様」
信忠は図面を見て、短く言った。
「火薬か」
光秀は隠さなかった。
「恐れながら。敵を遠距離から乱し、
突撃を鈍らせる策にございます」
信忠は図面を一瞥した。
その目が、わずかに細くなる。
「……面白い」
その声は、熱ではなく理だった。
信忠は続ける。
「父上は新しい策を好む。
だがこれは玩具ではない。戦を変える」
光秀は深く頷いた。
「はっ。敵を折るためにございます」
信忠は一拍置いて言った。
「殿に伝える。私からだ」
光秀の胸が僅かに軽くなった。
信長に直接言えば疑われる。
だが信忠からなら、軍の策として通る。
信忠は最後に言った。
「急げ。戦は待たぬ」
そう言い残し、去っていった。
光秀は立ち上がり、家臣へ命じた。
「夜を徹してでも作れ」
「敵を乱し、勝ちを早める」
その言葉と共に、兵站の戦が動き出した。
光秀は図面を見つめ、胸の内で呟いた。
(玉……)
(お前の知恵は、敵を斬るより早く)




