第五十五話「殿の眼」
岐阜城。
夏の熱気が板間にこもり、障子の向こうでは蝉が鳴いていた。
だが、信長の居間だけは異様に静かだった。
書状が一通、信長の前に置かれている。
明智十兵衛光秀。
信長はその名を見ただけで、口元を僅かに歪めた。
(また細かいことを書いてきおったか)
近頃、光秀からの報告は増えていた。
京のこと。公家のこと。寺社のこと。
噂の流れ、火種の芽。
そして今度は――兵站。
信長は扇を閉じ、書状を開いた。
最初の行を読んだ瞬間、信長の眉が動いた。
「火薬の湿気対策――最優先」
信長は鼻で笑った。
(分かっておる)
火薬は湿れば死ぬ。
湿れば鉄砲は棒だ。
戦は棒で勝てぬ。
だが光秀の書状は、ただの心得ではなかった。
樽の密閉。
漆。蝋。
油紙、渋紙。
石灰、木炭。
具体的だ。
しかも、手間がかかる。
信長は指で紙を軽く叩いた。
(十兵衛は、実際に手を動かす気だ)
単なる進言ではない。
実行案だ。
信長は続けて読む。
「矢・火薬・兵糧を一組として扱い、循環させる」
「補給を一度きりにせず、絶え間なく回す」
信長の目が細くなった。
(循環……)
(兵が前へ進むなら、荷も前へ進み続けねばならぬ)
信長は心の中で、戦場を思い浮かべた。
長篠。
三河の山道。
ぬかるむ道。
川。
雨。
戦場では、刀よりも先に荷が倒れる。
荷が倒れれば、兵が倒れる。
信長は紙を読む速度を上げた。
「同じ隊が同じ補給を担当し、欠けを生まず遅れを防ぐ」
信長は唇を舐めた。
(これは……軍を“機械”にする考え方だ)
兵をただの集まりではなく、
仕組みとして動かす。
信長の胸が僅かに高鳴った。
(面白い)
最後の項目に目が止まる。
「工兵部隊設立」
信長の目が止まり、紙の上で指が止まった。
道を敷く。
橋を架ける。
野営を整える。
柵を立てる。
信長はゆっくりと息を吐いた。
(……戦の形が変わる)
武勇で突き崩す時代ではない。
鉄砲と火薬。
そして補給。
補給が整えば、敵は削れる。
削れた敵は折れる。
信長は静かに笑った。
「十兵衛め……」
家臣が一歩前に出る。
「殿、いかがにございましょう」
信長は書状を閉じ、畳に置いた。
そして一言。
「採る」
家臣の目が見開かれる。
信長は淡々と続けた。
「兵を増やすより、道を増やせ。
矢を作るより、運ぶ仕組みを作れ。
それが勝ちだ」
家臣は深く頭を下げた。
「ははっ」
信長は扇を手に取り、軽く開いた。
だが次の瞬間、信長の顔から笑みが消えた。
(……危うい)
十兵衛は賢すぎる。
兵站の仕組みを握るということは、
戦の喉を握るということだ。
兵が生きるか死ぬかを決める場所に、光秀が立つ。
それは――力だ。
信長の目が冷える。
(十兵衛は忠義だ)
(だが忠義とは、力を持たせた時に試される)
信長は扇を閉じ、家臣へ命じた。
「十兵衛を岐阜へ呼べ」
「この仕組み、口で説明させよ。
図を持たせよ。
人をどう動かすか、どこに置くか、すべて聞く」
家臣はすぐに膝をついた。
「承知」
信長は立ち上がり、窓の方へ歩いた。
外は蝉が鳴き、城下の屋根が陽に照らされている。
信長は呟いた。
(兵站が整えば、天下は近い)
そして、心の奥でさらに思った。
(十兵衛を使えば、天下は早い)
(だが――)
(使いすぎれば、十兵衛が大きくなる)
信長は目を細めた。
その眼は、褒める眼ではない。
測る眼だった。
(大きくなりすぎる前に、手綱を締める)
信長はそう決めた。
褒美は与える。
役目も与える。
だが自由は与えぬ。
信長は背後の家臣に言った。
「十兵衛を働かせろ」
「働かせ続ければ、余計なことを考える暇もない」
家臣が息を呑む。
信長は振り返らずに続けた。
「賢い者は、止まれば牙を剥く。
ならば走らせておけばよい」
岐阜城の空気が、ぴんと張り詰めた。
信長の胸の内には、確かな満足があった。
明智は使える。
だが同時に、薄い警戒が芽を出していた。
(十兵衛……お前は、俺の道具だ)
(道具は、俺の手から離れるな)
信長の扇が、静かに閉じられた。




