第五十二話「補給の糸」
玉は十二になっていた。
背は少し伸び、声も幼さを残しながら落ち着きを帯びてきた。
だが心だけは、年齢に追いついていない。
むしろ逆だ。
岐阜城の空気は、日に日に重くなる。
武将たちの往来は増え、城内の荷が増え、厨には米が積まれ、塩が運び込まれる。
(……戦が近い)
玉はそう感じていた。
史実では、この年に長篠の戦いがある。
それだけは知っている。
教科書に書かれていた、一文の知識。
「織田・徳川連合軍が武田を破る」
たったそれだけ。
(でも……それは大きな戦)
(大きな戦なら、必ず補給が要る)
玉は厨の隅で米俵を見つめながら考えた。
戦というものは、刀で決まるのではない。
腹で決まる。
食えるか、飲めるか。
矢が尽きぬか。
火薬が尽きぬか。
草鞋が切れぬか。
兵は、戦う前に消耗する。
(父上は今、京にいる)
(戦の中心からは少し遠い)
(でも父上が信長様に進言すれば……)
玉は胸の奥が熱くなるのを感じた。
(父上の価値が上がる)
(信長様の信任が厚くなる)
(それは、父上を守る)
玉は知らない。
その「信任」が、時に鎖になることを。
その「進言」が、誰かの縁を引き寄せる布石になることを。
玉はただ、父を守りたかった。
だから筆を取った。
夜。灯明の火。
玉は紙を広げ、墨をすった。
指先が少し黒くなる。
そして慎重に筆を走らせた。
「父上
玉にございます。
近頃、岐阜城では兵や荷が増え、 皆が忙しそうにしております。
戦が近いのではと、胸がざわつきます。
もし大きな戦となれば、 勝敗は刀や弓だけではなく、 米、塩、矢、火薬、草鞋、馬の飼葉、 そういった物の不足で決まるやもしれませぬ。
兵が腹を空かせれば、士気は落ち、 道が悪ければ、矢も火薬も届きませぬ。
ゆえに父上が、 『補給の仕組みを整えるべき』 と殿へ進言されれば、 大きな助けとなるのではと存じます。
荷駄の者を定め、 道を押さえ、 戦場へ絶えず物が届く仕組みを作る。
それがあれば、戦は長くとも崩れませぬ。
玉は戦のことを知りませぬが、 厨におりますと、 物が途切れれば皆が困ることだけは分かります。
父上の働きが、殿の力となり、 父上の身を守ることに繋がればと願い、 筆を取りました。
玉」
書き終えた玉は、息を吐いた。
(余計なことを書いたかもしれない)
(でも……言わねば)
玉は紙を折り、封をした。
そして翌日、いつもの商人に託した。
「……お願い。父上の手に、必ず」
商人は頷き、懐に入れた。
玉はその背を見送りながら、小さく拳を握った。
(父上を助ける)
(少しでも未来を変える)
それが、玉の全てだった。
京。
光秀は書状の束の中に紛れた小さな封を見つけ、
一目で玉の筆跡と知った。
胸が締め付けられる。
(……また案じておる)
光秀は文を開き、読み進めた。
補給。
荷駄。
道を押さえ、絶えず運ぶ仕組み。
光秀は目を閉じた。
(……確かに)
戦の範囲は広がっている。
一国の戦ではなく、天下の戦になりつつある。
矢の数、火薬の数、兵糧の数。
それらを整える者がいなければ、勝てる戦も負ける。
光秀はゆっくりと息を吐いた。
(玉は……厨にいて、戦を見ている)
(戦の形を、別の角度から見ている)
幼い娘の文とは思えぬ。
だが、内容は理にかなっていた。
光秀は指を組み、思案した。
(これを進言すれば、信長様は喜ばれるだろう)
信長は新しい仕組みを好む。
理が通るものを好む。
そして何より
(私の立場が強まる)
それは玉の望みでもある。
明智を守る道にもなる。
だが光秀は、胸の奥にわずかな不安を覚えた。
(強まる立場は、羨望も呼ぶ)
(羨望は、妬みを呼ぶ)
光秀は首を振った。
今は迷うな。
勝たねばならぬ。
生きねばならぬ。
光秀は筆を取り、信長への書状を書き始めた。
京の状況の報告。
寺社の動き。
公家の空気。
そして最後に、さらりと添える。
「戦が大きくなれば、荷駄と補給を整えることが肝要。
兵站の仕組みを定めれば、戦はより早く終わりましょう」
余計な感情は書かない。
ただ、理だけを書く。
信長が好む形で。
光秀は書き終えると、紙を折り、封をした。
灯明の火が揺れた。
光秀はその火を見つめ、静かに呟いた。
「……玉」
娘は岐阜にいる。
人質のような立場で、身動きが取れぬ。
それでも、未来を変えようとしている。
父として、これほど情けなく、
これほど誇らしいことはなかった。
光秀は目を閉じる。
(この進言が、吉と出るか凶と出るか)
(分からぬ)
だが――
(今は進むしかない)
紙一枚の提言が、
戦国の流れを少しだけ変える。
そして玉はまだ知らない。
この一筆が、
やがて細川という名を、
織田の盤上へ引き寄せることを。




