第五十三話「岐阜への召し」
京から岐阜へ向かう道は、長い。
馬を走らせても、宿を越えても、
胸の奥の緊張は消えなかった。
明智光秀は、自分の書状が信長の目に留まったことを知っていた。
それは誉れである。
だが同時に、刃でもある。
信長に呼ばれるということは、
褒美か、叱責か、試しである。
そのどれであっても、油断はできない。
(兵站……)
玉の文から生まれた提言。
理は通っている。
だが信長は理だけでは動かぬ。
理を好むが、理を使う。
理を見せた者を、使い潰す。
光秀は唇を引き結んだ。
(玉……お前の言葉は正しい)
(だが、正しいほど危うい)
岐阜城が見えた。
空を突くような天守。
山の稜線を背負う巨大な城は、
もはや一大名の居城ではない。
天下を飲み込む器だ。
光秀は城門をくぐり、馬を降りた。
家臣に案内されながら、廊下を進む。
板間を踏む足音が、やけに大きく響いた。
(……落ち着け)
(ここで震えれば終わりだ)
広間に通されると、すでに信長は座していた。
その姿を見た瞬間、光秀の背筋が凍る。
織田信長。
ただ座っているだけで、
空気が支配される。
信長は光秀を見て、短く言った。
「十兵衛」
光秀はすぐに膝をつき、深く頭を下げた。
「はっ。お呼びにより参上いたしました」
信長は面倒くさそうに扇を軽く動かした。
「お前の書状、読んだ」
光秀の喉が鳴る。
信長は続ける。
「兵站、か。
戦の道を、腹で決める……面白い」
光秀は息を整え、慎重に言葉を選んだ。
「恐れながら。戦が広がれば広がるほど、
兵糧と火薬の不足が敗因となります。
矢が尽きれば勝ち戦も負け戦となりましょう」
信長は目を細めた。
「分かっておる。だが、お前は“仕組み”を言った。
仕組みを語る者は少ない」
光秀は畳に置いた手を強く押さえた。
(今だ)
光秀は懐から巻物を取り出した。
「恐れながら、こちらを」
信長は眉を上げ、家臣に取らせた。
巻物が開かれる。
そこには大八車の図。
車輪の大きさ。
軸の構造。
積載量の目安。
引き手の人数。
そして補給の隊列案。
信長はそれを見た瞬間、
わずかに目を見開いた。
ほんの一瞬。
だが光秀は見逃さなかった。
信長は図を眺めながら、低く笑った。
「……ほう」
その声には興味が混じっていた。
信長は巻物の一部を指で叩き、言う。
「これならぬかるみでも通る。
荷駄が遅れれば戦が止まる。止まれば負ける。
お前の言う通りだ」
光秀は深く頭を下げた。
「恐れ入ります」
信長は視線を上げ、光秀を見た。
そして短く言った。
「よい」
その一言だけだった。
褒美でもない。
長い称賛でもない。
だが信長の「よい」は、
千の言葉より重い。
光秀の胸が熱くなった。
(……通った)
(玉の提言は、殿に届いた)
信長は扇を畳に置き、立ち上がった。
「兵站の仕組み、任せる。
戦はこれから大きくなる。
道を押さえ、米を押さえ、火薬を押さえろ」
光秀は思わず息を呑む。
(任せる……?)
それは信任であり、同時に鎖だ。
だが今は喜ぶべきだ。
光秀は額を畳に付けた。
「はっ。必ずや」
信長は踵を返しかけ、ふと足を止めた。
「……十兵衛」
「はっ」
信長は振り返らずに言った。
「お前は、京に居るだけではない。
岐阜にも顔を出せ。
俺の目の届くところで働け」
光秀の背筋に冷たい汗が走った。
(……目の届くところで)
信長の言葉は、褒め言葉ではない。
監視だ。
だがそれでも――疑われるよりはいい。
光秀は静かに答えた。
「御意にございます」
信長はそのまま歩き去った。
広間に残った光秀は、ようやく息を吐いた。
(生きた……)
(そして、前へ進んだ)
光秀は立ち上がり、深く礼をして退出した。
廊下を歩くうち、光秀の胸に別の思いが湧き上がる。
(玉に……会える)
岐阜に来た理由は、信長の命だけではない。
娘の顔を見たい。
無事を確かめたい。
光秀は案内の者を止め、信長の側近に願い出た。
「恐れながら。
こののち、帰蝶様のもとに仕える娘・玉に、
しばし会うことを許されましょうや」
側近は少し考え、信長の許可を取りに走った。
しばらくして戻り、短く言った。
「殿より。
“好きにせよ。ただし長くは許さん”とのこと」
光秀は深く頭を下げた。
「かたじけない」
帰蝶の部屋へ向かう途中、光秀の心は落ち着かなくなっていった。
(どれほど変わったか)
(泣いてはいないか)
(怖い思いをしてはいないか)
だが同時に、思い出す。
玉の手紙。
兵站の提言。
朝廷と公家の危うさの指摘。
(……泣く娘ではない)
(むしろ、私が泣きたくなるほど頼もしい)
廊下の向こうから、小さな足音がした。
玉が現れた。
背は伸びた。
顔つきは以前より引き締まり、
瞳の奥に静かな光が宿っている。
光秀はその姿を見た瞬間、胸が締め付けられた。
(……無事だ)
玉は光秀を見ると、すぐに膝をつき頭を下げた。
「父上……お戻りでございますか」
声は震えていない。
だがその言葉に、玉の胸の内の安堵が滲んでいた。
光秀は思わず、声が柔らかくなる。
「久しいな、玉」
玉は顔を上げた。
そして一瞬だけ、幼い娘の顔になった。
「……父上、よかった」
その一言で、光秀の胸が熱くなった。
(情けないのは、私だ)
(娘に、こんな言葉を言わせてしまった)
光秀は玉の頭に手を伸ばしかけ、
だが周囲の目を意識して止めた。
代わりに、静かに言う。
「お前の文、確かに届いた。
……よく気づいた」
玉は目を瞬かせた。
「お役に立てたなら……」
光秀は首を振る。
「役に立ったなどという言葉では足りぬ。
お前は、父を救った」
玉の瞳がわずかに揺れた。
光秀は続けた。
「だが……これほど父を心配する娘もおらぬ。
私は父として、情けない」
玉は小さく首を振った。
「父上は……戦と都を守っておられます。
情けないなど……」
光秀は玉を見つめた。
頼もしい。
賢い。
だがまだ十二の子だ。
この子は、岐阜城という巨大な渦の中にいる。
(人質のようなものだ)
(信長様の城で、帰蝶様のもとで……)
(危うい場所にいる)
光秀は唇を結び、低く言った。
「玉。生きよ。
目立つな。だが、折れるな」
玉は頷いた。
「はい」
その返事が、あまりに真っ直ぐで、光秀は胸が痛くなった。
(私はこの子を守らねばならぬ)
(信長の疑いからも、戦の火からも)
光秀は心の中で誓った。
そして同時に思った。
(この子の知恵は、武器だ)
(だが武器は、持ち主を傷つける)
玉の未来を守る策を、
今こそ考えねばならない。
光秀は玉を見下ろしながら、静かに言った。
「……岐阜で学べ。
だが、必ず帰る道を残せ」
玉は少しだけ微笑んだ。
「父上が道を残してくださるなら、私は迷いませぬ」
光秀はその言葉に、息を呑んだ。
(……この子は)
(私の娘でありながら、私より覚悟がある)
光秀は、心の底から畏れた。
そして、心の底から誇らしかった。
岐阜の廊下に、短い沈黙が落ちた。
その沈黙は、親子の距離を埋める沈黙だった。
やがて光秀は静かに言った。
「玉。必ず守る」
玉は深く頭を下げた。
「……はい。父上」
岐阜城の中で、
たった一瞬だけ、戦の世が遠のいた。




