第五十一話「嫡男の問い」
岐阜城の空気が、少しだけ変わった。
長島の話題は消えぬ。
兵の目からも、夜の呻き声からも、灰の匂いは抜けない。
それでも
城の中を漂っていた、あの妙なざわめきが薄れてきていた。
玉は廊下を歩きながら、胸の内でそっと息を吐く。
(父上は……動いてくださった)
商人の話では、明智光秀は京から信長へ、頻繁に書状を送っているらしい。
事細かに、何が起きたか、誰が何を言ったか、どこで火種がくすぶるか。
それが効いたのだろう。
最近は、城下で聞こえる噂が変わってきた。
「明智殿は朝廷に近すぎる」
「公家に取り入っている」
そんな声が、減った。
代わりに聞こえるのは
「明智殿はよく働く」
「信長様のために骨を折っている」
そういう言葉だった。
玉は心の奥が温かくなるのを感じた。
(良かった)
(少しずつでも……未来が動いている)
帰蝶の部屋に仕える日々も、以前ほど張り詰めてはいない。
帰蝶は相変わらず鋭いが、玉の働きを当然のように受け入れている。
その当然が、玉にはありがたかった。
目立つ必要はない。
目立たずに、井戸を掘る。
噂が集まる場所を作る。
玉はその意識を、毎日の呼吸のように持ち続けていた。
そんな折。
廊下の先で、ふと空気が変わった。
板間を踏む足音が止まり、静かな声が玉を呼ぶ。
「玉」
玉は立ち止まり、背筋を伸ばした。
そこにいたのは織田信忠だった。
鎧は着けていないが、立ち姿だけで分かる。
嫡男の圧。
玉はすぐに膝をつき、頭を下げた。
「信忠様」
信忠は廊下の柱にもたれ、玉を見下ろした。
その目は冷たくもあり、どこか穏やかでもある。
父・信長のように燃え上がる熱はない。
ただ、研ぎ澄まされた刃のような静けさがある。
「少し、話せるか」
玉は胸の奥が小さく跳ねた。
(……また、何を聞かれる)
だが断れる立場ではない。
「はい。お時間を頂けるのであれば」
信忠は軽く頷いた。
「ついて来い」
玉は一歩遅れて後ろを歩く。
廊下の曲がり角をいくつか越え、人の少ない縁側へ導かれた。
庭が見える場所。
風が通り、葉が擦れる音が静かに響く。
信忠は立ったまま、庭を見つめた。
そして、唐突に言った。
「最近、城下の噂が変わった」
玉は黙って聞いた。
信忠は続ける。
「明智が朝廷に近いという噂が消えた。
代わりに『よく働く』と聞こえる」
玉の胸が締まった。
(……父上の努力が届いている)
信忠は振り返り、玉を見た。
「お前が何かしたのか」
玉の心臓が跳ねた。
(鋭い……)
答え方を間違えれば危ない。
ここで「した」と言えば、政治の匂いが出る。
「していない」と言えば、嘘になる。
玉は一瞬だけ目を伏せ、柔らかく答えた。
「……私は、何もできませぬ。
ただ、父上がご無事であるよう祈り、文を出しただけにございます」
信忠は目を細めた。
「文を出した、か」
玉の喉が乾いた。
(しまった)
言い過ぎたか。
だが信忠は意外にも責めるような顔はしなかった。
むしろ、興味深そうに言った。
「父を案じるのは当然だ」
そして少し間を置き、静かに続けた。
「……お前は賢い。
賢い者は、余計なことを言わぬ。
だが余計なことを考える」
玉は息を止めた。
信忠は淡々と言う。
「私は、賢い者を嫌いではない。
役に立つからだ」
玉の背筋が冷えた。
(役に立つ)
その言葉は褒め言葉のようで、命令のようでもある。
信忠は庭の池を見ながら、ふと口調を落とした。
「京は今、落ち着いているか」
玉は慎重に答える。
「……私には分かりませぬ。
ですが、京の噂は絶えぬと聞きます」
信忠は頷いた。
「将軍の噂も、まだある」
玉は小さく頷く。
「はい……」
信忠は玉を見下ろした。
「お前は、何を見ている」
玉は胸の奥で小さく震えた。
(この人は、探っている)
(私から何か引き出したい)
玉は言葉を選ぶ。
「……私は、城の下の方を見ています。
厨や洗濯場、使いの者の話を」
信忠は口元をわずかに上げた。
「正しい」
そして、信忠は初めて玉に問いを投げた。
「噂は、どこから生まれる」
玉は答えを知っていた。
だが、その答えを言えば、信忠の道具になる。
(でも、拒めない)
玉は小さく息を吐き、静かに言った。
「……恐れから、生まれます」
信忠の目が細くなる。
「恐れか」
玉は頷く。
「恐れは、誰かを求めます。
その求めが、噂を作り……やがて人を動かします」
信忠は、しばらく黙った。
庭の葉が揺れる音だけが響く。
やがて信忠はぽつりと言った。
「父上は恐れられている」
玉は答えなかった。
答える必要がないほど、真実だったからだ。
信忠は続ける。
「だから私は、恐れを抑えねばならぬ」
玉は胸が締め付けられた。
(信忠様は……殿の後を継ぐ覚悟がある)
信忠は玉を見下ろし、言った。
「お前のような者が城にいるのは、面白い」
玉は頭を下げた。
「恐れ入ります」
信忠は最後に一言だけ落とした。
「お前が知った噂は、私にも伝えよ。
ただし、言葉を選べ。
城を揺らす噂は、扱いを誤れば刃になる」
玉の指先が冷たくなった。
(……これは命令だ)
信忠は去り際、振り返らずに言った。
「お前が役に立つなら、守ってやれる。
覚えておけ」
信忠の背が遠ざかっていく。
玉はその場に残り、息を吐いた。
(信忠様は……私を道具にしようとしている)
(でも、守ると言った)
玉は唇を噛んだ。
(信忠様の言葉を信じていいのか)
分からない。
だが一つだけ確かだった。
信忠は玉を見ている。
帰蝶とは違う角度で。
信長とも違う目で。
玉は胸の内で呟いた。
(情報を集めるだけでは足りない)
(誰に渡すか)
(誰に渡せば、父上が守られるのか)
噂の井戸は掘れた。
だが、汲み上げる手を誤れば、
その水は毒になる。
玉は風の匂いを吸い込み、静かに目を閉じた。
(慎重に……慎重に進める)
未来はまだ、紙一枚で燃え上がる。




