第五十話「報せの数」
京の夜。
明智光秀は、灯明の前に座していた。
玉からの文を読み終えたあと、胸に残ったのは怒りではない。
悲しみでもない。
焦りだった。
(……遅れれば、火は燃え広がる)
玉の言葉は幼い娘の戯言ではなかった。
京の空気を吸い続けてきた光秀だからこそ、その危うさが骨に沁みる。
信長は苛烈である。
苛烈だからこそ、恐れられる。
恐れられるからこそ、朝廷も公家も「逃げ道」を求める。
その逃げ道に――光秀がなっている。
(私が良かれと思い動いたことが、
疑いの種になり得る)
その事実が、光秀の心を締め付けた。
そして何より、娘にそれを見抜かれたことが痛かった。
(父として情けない)
だが、沈んでいる暇はない。
光秀は筆を取った。
墨をすり、紙を広げる。
信長に報告するための書状だ。
これまでの光秀なら、要点だけをまとめて出した。
だが、もうそれでは足りぬ。
(疑われぬためには、隠さぬこと)
(信長様が疑いを持つ前に、全てを渡す)
光秀は筆を走らせた。
朝廷の使者が何を言ったか。
公家がどんな嫌味を吐いたか。
寺社がどのような不満を抱えているか。
それをどう鎮めたか。
誰がどの噂を流したか。
どこで火がくすぶっているか。
事細かに、余すことなく。
まるで、己の首を差し出すように。
(これでいい)
(これが、私の生き残る道だ)
書状を書き終えた光秀は、息を吐いた。
その息は重かったが、心は妙に澄んでいた。
玉の文が、光秀の心を変えた。
「朝廷のために動く」のではない。
「織田のために動く」のでもない。
ただひとつ。
(信長様のために動く)
そう見える形を作る。
それが、結果として明智を守る。
光秀は決めた。
これから朝廷や公家とは、必要以上に近づかぬ。
恩を売らぬ。
信任を積み上げすぎぬ。
距離を取る。
そして何より
信長の配下としての立ち居振る舞いに終始する。
「京の顔役」ではなく、
「信長の手足」として振る舞う。
光秀は静かに呟いた。
「……これで良い」
その声は、己に言い聞かせる声だった。
岐阜城。
玉は厨の隅で、商人から文を受け取った。
小さな包み。
封は簡素。
だが筆跡は確かに父のものだった。
玉は誰にも見られぬように部屋へ戻り、障子を閉める。
灯明の前で文を開いた。
短い。
驚くほど短い。
けれど玉は、そこに父の心を見た。
「案じるな」
「父は己の役目を弁えている」
その一行だけで、胸の奥がほどけた。
(……届いた)
(ちゃんと、伝わった)
玉は思わず息を吐き、肩の力が抜けた。
(良かった)
(父上は……動いてくれる)
玉は文を胸に抱きしめるようにして、目を閉じた。
この時代で、たった一人。
確かに味方がいる。
それだけで、心が持ち直す。
玉は小さく笑った。
「……父上、強い」
そして、心の奥で呟く。
(私も、負けない)
数日後。
岐阜城に、京からの書状が頻繁に届くようになった。
これまでより多い。
これまでより細かい。
信長は広間で文を読み、鼻で笑った。
「……十兵衛め」
家臣たちは顔色を窺う。
信長は文を畳に置き、腕を組んだ。
(妙に律儀になりおった)
(何かあったか)
一瞬、疑いが頭をよぎる。
だが、次の瞬間には打ち消した。
(いや……逆だ)
(疑われぬために、先に全て寄越している)
信長は口元を歪めた。
「賢い」
光秀は賢い。
賢いからこそ使える。
賢いからこそ、危うい。
だが今回の動きは――正しい。
信長は、ふっと笑った。
(恐れておるな)
(だが恐れを知る者は、裏切らぬ)
信長は立ち上がり、部屋を出る。
歩きながら心の中で言った。
(十兵衛、お前は分かっている)
(朝廷に寄るな)
(織田に寄れ)
(寄り切れ)
信長の目は冷たく光った。
だが、その光は怒りではなかった。
確かめる光だった。
(よし)
(まだ使える)
岐阜城の夜。
玉は灯明を消し、布団に潜り込んだ。
胸の奥には、まだ不安がある。
未来は変わったとは言えない。
けれど。
父は動き始めた。
信長も、それを受け止めた。
小さな一手が、確かに盤面を揺らした。
玉は目を閉じ、心の中で静かに誓った。
(情報を集める)
(噂の井戸を掘り続ける)
(父を守る)
(そして……細川へ行かない)
灯明の残り香の中で、玉は眠りに落ちた。
岐阜と京を繋ぐ紙の道が、
確かに未来を変え始めていた。




