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細川ガラシャになる前の明智玉でした。父の謀反を止めないと私が燃えるので必死です  作者: れんれん


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第四十九話「父の手に届く」

京の夜は、岐阜より冷える。


夏の盛りであっても、都の闇には湿り気があり、

土と古い木と、寺の香が混じった匂いがする。


明智光秀は宿の一室で灯明を前に座していた。

昼は朝廷の使者に頭を下げ、

夕は寺社の訴えを聞き、

夜は公家の嫌味を受ける。

その繰り返しだ。


机の上には書状が積まれ、

朱印の押された文もあれば、

口頭で伝えられた命の覚え書きもある。


光秀は指で眉間を押さえ、息を吐いた。

(……疲れた、などと言える立場ではない)


その時、戸を叩く音。

「十兵衛様。岐阜より、商いの者が。

お手紙を預かっていると申しております」

光秀の目が僅かに動いた。


岐阜

胸の奥が、一瞬だけ熱くなる。

「通せ」

薄暗い部屋へ入ってきた商人は、深く頭を下げた。

そして、慎重に懐から小さな包みを取り出す。

封は小さく、筆跡は幼い。


だが、光秀は一目で分かった。

(……玉)

喉が鳴った。

光秀は商人に目だけで礼を告げ、包みを受け取る。

商人は余計なことを言わず、静かに退いた。


残ったのは、灯明の火と、紙の匂い。

光秀は封を切る手が、僅かに震えるのを感じた。

(……無事か)

(元気でいるか)

そんな父親として当たり前の心配が、

紙一枚で胸を満たす。


だが

文を開き、読み進めるにつれ、光秀の顔から血の気が引いた。

一行目。

二行目。

三行目。

長島の噂。

恐れの拡散。

朝廷と公家の心理。


そして――

「父上が朝廷を使っていると誤解される恐れ」

その言葉を読んだ瞬間、光秀は膝の上で拳を握りしめた。

(……そこまで見えているのか)

光秀は灯明を見つめた。


玉は岐阜にいる。

戦の中心にいる。

帰蝶の傍にいる。


幼い娘が、都の政治の危うさをここまで言語化するなど、あり得ない。

(いや……あり得ないはずなのに)

光秀はふと、あの日の屋敷を思い出した。

帰還した自分を、娘は見ただけで察した。

足取りの乱れ、声の掠れ。

装束の煤。

その時は、偶然だと思った。


だが、違う。

(玉は……見ている)

(見えている)

そして、恐ろしいほど冷静だ。

光秀の背に汗が浮かんだ。

(畏怖……いや、これは畏れだ)

(我が娘でありながら、私より先を読む)

読み終えた後、光秀はしばらく文を閉じたまま動けなかった。


沈黙。

外で虫が鳴く。

都の夜は静かだが、その静けさが、かえって胸を締めつける。


やがて光秀は、深く息を吐いた。

「……危ない」

声が漏れた。


玉の言う通りだ。

信長は苛烈だ。

その苛烈さは、人を従わせるが、同時に恐れを生む。

恐れた者は、必ず逃げ道を求める。

逃げ道は、必ず誰かを持ち上げる。

その「誰か」に、光秀がなっている。


朝廷が、寺社が、公家が、

光秀を頼りにしすぎれば

信長はそれを「光秀が集めた力」と見る。

(信長様は、理屈で動く)

(理屈で動くからこそ、理屈で疑う)


そして疑いは、火種になる。

光秀は灯明の火を見つめた。

(私は……信長様のために走っている)

(だが、走れば走るほど疑われる)

(玉が言った矛盾は……本物だ)


光秀は歯を食いしばった。

(情けない)

(娘に、こんな心配をさせている)

岐阜城にいる玉は、自由に動けぬ。

帰蝶の庇護があるとはいえ、信長の城にいる限り、それは「人質」に等しい。

(我が娘を、織田の中に置いたまま、私は京で消耗している)

(父として……これほど情けないことがあるか)


光秀は文を握りしめた。

紙が少しだけ皺になる。

そして、ゆっくりと目を閉じた。

(対策が要る)

(今すぐに)


光秀は静かに筆を取り、紙を広げた。

だが返書を書こうとして、手が止まる。

(玉に返事を出せば、危険だ)

(文が誰の手に渡るか分からぬ)


玉は商人を使った。

賢い。

だがそれでも危うい。

光秀は思案した。

(まず、京での立ち位置を変える)

(信長様に「私は朝廷側ではない」と示す必要がある)

答えは一つだった。


――報告。

報告の頻度を増やす。

些細なことでも信長へ逐一伝える。

「朝廷とこう折衝した」

「公家がこう言った」

「寺社がこう動いた」

「それをこう抑えた」


すべてを透明にする。

信長に「隠し事がない」と思わせる。

信長の疑いの芽を摘む。


そして次。

(朝廷との距離を、あえて離す)

必要以上に近づかない。

恩を売りすぎない。

信任を得るのは良い。


だが信任が「頼りすぎ」に変わった瞬間、危険になる。

光秀は結論を出した。

(私は、京の火消し役ではあるが、朝廷の味方ではない)

(信長様の命で動く官吏である、と徹底して示す)


そして最後。

玉を守る。

(玉を岐阜に置くのは危うい)

(だが、引き戻す口実がない)

ここで光秀は拳を握った。

(玉を動かせるのは……帰蝶様だけ)

帰蝶は信長の正室。

信長の怒りの矢を一度受け止められる唯一の存在。


玉が帰蝶に気に入られているなら、

それは盾になる。

(玉よ……生き延びろ)

(帰蝶様の傍を離れるな)


光秀は喉の奥が熱くなるのを感じた。

娘に助けられている。

父である自分が、娘の洞察に救われている。


悔しさと誇らしさが、同時に胸を満たした。

(……この子は、何者だ)

(なぜ、こんな知恵を持つ)

疑問は尽きない。

だが今は、それを問うている場合ではない。


光秀は決めた。

(疑問は後だ)

(まず生きる)

(玉を生かす)

光秀は筆を取り、極めて短い返書をしたためた。

余計なことは書かぬ。

誰が見ても意味が取れぬように。


だが玉なら分かるように。

「玉へ

文、確かに受け取った。

案じるな。 父は己の役目を弁えている。

そなたは今の場所で、 目立たず、よく見て、よく学べ。

必ず、道は開ける。

十兵衛」


光秀は筆を置いた。

そして灯明の火を見つめ、静かに呟いた。

「……玉」

父として守るべき娘に、

逆に守られている。

それが悔しい。

だが同時に――

(頼もしい)


光秀は拳を開き、文をそっと折りたたんだ。

(この火種を消さねばならぬ)

その決意だけが、京の夜に確かに残った。

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