第四十八話「紙の上の火種」
長島の名は、もう戦の話ではなかった。
噂になっていた。
岐阜の城下でも、商人の口からこぼれる。
「殿は……鬼になられた」
「いや、魔王だ」
「燃やした。全部だ」
玉はそれを、米や干物を運ぶ商人の話から聞いた。
厨の隅。
誰も気に留めぬ場所で、商人は声を潜めていた。
「……伊勢は、もう二度と逆らえんでしょうな」
「逆らえば、ああなると分かった」
玉は笑顔を作り、ただ頷いていた。
笑っていなければ、聞けない。
だが腹の奥が冷えた。
(噂になるほど苛烈……)
(信長様は、勝った)
(でも勝ち方が、人の心を焼いた)
商人はさらに言った。
「けどなぁ……明智様は違う」
「京では評判でございますよ。無駄に殺さぬ、奪わぬ、筋を通す」
「公家衆も寺も、明智様には頭を下げる」
玉の指先が、ぴくりと動いた。
(父が……京で)
(信任を得ている)
嬉しいはずなのに、胸の奥がざわついた。
商人は言葉を続ける。
「明智様がおるから、京は持ってる」
「織田が怖い言うても、明智様がおるからな……」
玉はその言葉を、何度も頭の中で反芻した。
そしてその夜。
灯明の火が小さく揺れる部屋で、玉は膝を抱えた。
(……これは)
(危ない)
信長の苛烈さは噂になる。
光秀の穏やかさは、信任になる。
一方は恐怖を撒き、
一方は安心を作る。
それは本来、主君と家臣の理想の形のはずだ。
だが
(信長様は、どう思う?)
信長は、疑う人間ではない。
疑う必要がないほど、力がある。
けれど、力がある者ほど、裏切りを恐れる。
玉は思った。
(父は京で朝廷と公家の折衝をしている)
(信長様のために、頭を下げ、泥をかぶり、矢面に立っている)
それは忠義だ。
だが、外から見れば違う。
朝廷は信長を恐れる。
公家は信長を恐れる。
そしてその恐れを和らげるために、光秀が動いている。
(もし朝廷が……信長様が朝廷までひっくり返すと勘違いしていたら?)
(もし公家が……織田が天下を奪うだけでなく、帝の上に立つと怯えていたら?)
そうなれば、朝廷は誰を頼る。
――光秀。
玉の喉が鳴った。
(距離が近いほど、誤解される)
(光秀が朝廷を使っている、と)
(信長様が思ったら……?)
信長が「朝廷が光秀に懐柔された」と誤解したら。
信長が「光秀が朝廷を盾にする」と疑ったら。
その疑いは、消えない。
玉は灯明を見つめながら、ゆっくり息を吐いた。
(……これが、本能寺へ繋がる火種なのでは)
背筋が冷たくなった。
史実の「結果」しか知らなかった。
だが今、少しだけ「理由」の形が見えた気がした。
玉は立ち上がり、紙を引き寄せた。
筆を取る。
墨をすりながら、心が震えた。
(父上に知らせねば)
(でも……直接の文は危険)
父が京で忙しいなら、家中の者が文を検めることもある。
信長の目に触れれば、最悪だ。
(だから、商人に頼む)
玉は昼に話した商人の顔を思い出した。
口が軽い男ではない。
むしろ、噂を売り買いするようでいて、肝心なことは黙るタイプだ。
玉は筆を走らせた。
「父上
玉にございます。
このたび城下にて、長島の戦の噂を耳にいたしました。
殿は勝たれましたが、勝ち方が人の口に残り、 恐れが広がっているようにございます。
その一方で、父上の京での働きは、 朝廷や公家より信任厚く、 皆が父上を頼みにしていると聞きました。
父上の働きは、殿のためであること、玉にも分かります。
されど
恐れが広がるほど、 人は『守り』を求めます。
朝廷も公家も、殿を恐れるならば、 父上に縋るやもしれませぬ。
それが巡り巡って、 殿の御耳に入り、 『朝廷を父上が使っている』 『父上が朝廷と近すぎる』 と、誤解される恐れがあるように思われます。
父上は決して殿に背かぬこと、 目立たぬこと、 殿の意向に逆らわぬこと。
それが、父上の身を守り、 明智を守る道にございます。
玉は何もできませぬが、 ただ案じております。
どうか御身をお大事に。
玉」
書き終えた瞬間、玉の手は震えていた。
(こんな文……子が父に書くものではない)
(けれど……私は子ではいられない)
玉は紙を折り、封をする。
そして翌日、商人を呼び、誰もいない厨の裏でそっと渡した。
「……この文を、京の明智殿へ。
必ず、父上の手へ届くようにお願いしたいのです」
商人は目を細め、玉を見た。
「姫様……こりゃ、重い文でございますな」
玉は小さく頭を下げた。
「どうしても……届けとうございます」
商人は一拍置いて、静かに頷いた。
「承りました。命に代えても届けます」
玉は息を吐いた。
(これでいい)
(これで少しでも……父を守れるなら)
だが同時に、胸の奥に痛みが走った。
(私は、父を疑っているのか)
(父が謀反を起こすと知っているから、こんなことをするのか)
灯明の火が揺れる。
玉はその火を見つめ、心の中で呟いた。
(お願いだから……燃えないで)
紙の上の言葉が、
まだ見えぬ未来の火種に、
水となって落ちることを祈りながら。




