第四十七話「嫡男の声」
帰蝶の部屋に、気配が差し込んだ。
板間を踏む足音が近づき、やがて止まる。
その一つ一つが、城の空気を変える。
玉は思わず背を正した。
(……信忠様)
障子が静かに開き、織田信忠が姿を現した。
若く、背筋が真っ直ぐで、鎧を着けていなくとも「武将」と分かる気配がある。
帰蝶は扇を軽く動かし、涼しい声で迎えた。
「珍しいこと。何用にございますか」
信忠は膝をつき、礼をする。
「母上。先日は……兵に粥を配る件、助かりました。
礼を申し上げに参りました」
玉は驚いた。
(……本当に、礼を言いに来たの?)
戦の中枢にいる嫡男が、わざわざ。
それも帰蝶に。
帰蝶は微笑む。
「礼など要りませぬ。城の内が乱れれば、殿の機嫌が悪くなる。
それを避けただけにございます」
信忠は少しだけ口元を緩めた。
「……母上らしい」
その短いやりとりの中に、親子の距離が見えた気がした。
近すぎず、遠すぎず。
言葉少なく、だが互いをよく見ている。
信忠は少し視線を移し、玉の方を見た。
一瞬。
その目が、玉の奥まで覗き込むように鋭くなる。
玉は息を止めた。
(……見られている)
信忠は帰蝶へ向き直り、淡々と言った。
「母上。ひとつ、許しを頂きたい。
あの娘と、少し話をしたいのです」
帰蝶は扇を止めた。
「玉と?」
玉の胸が跳ねた。
(……なぜ)
信忠は視線を逸らさず答える。
「城の中で起きたことを、聞いておきたい。
兵の顔を見ていた者の声は、役に立つ」
帰蝶は一拍置き、玉を見た。
その目が告げる。
――逃げるな。
――隠せ。
――だが、怯えるな。
帰蝶はゆっくり頷いた。
「よいでしょう。
ただし、玉。言葉は慎みなさい。余計なことを言うでない」
玉は深く頭を下げた。
「はい、帰蝶様」
信忠は静かに立ち上がる。
「では、少し」
廊下へ出ると、風が通り抜けた。
夏の岐阜は熱い。
だが城の廊下は影が濃く、畳の匂いが落ち着かせる。
玉は信忠の半歩後ろを歩く。
話をするというが、どこへ行くのか。
(何を聞きたいの)
(料理? それとも……)
信忠は人の少ない縁側へ玉を導いた。
庭の池が見え、鯉がゆっくりと水面を割っている。
信忠は立ったまま、玉を見下ろす。
玉は正座し、視線を上げた。
沈黙。
その沈黙が、玉の心臓を締め付ける。
(……試されている)
信忠は静かに口を開いた。
「お前は、兵に粥を配っていた」
「はい」
「恐れはなかったか」
玉は一瞬だけ迷った。
恐れがないはずがない。
だが正直すぎれば、逆に疑われる。
玉は柔らかく答えた。
「……少し、怖うございました。
ですが、皆さまが倒れてしまわれたら、城の中がもっと乱れると思いましたので」
信忠はその返答を聞き、目を細めた。
「……怖いと言えるのは、まともな者だ」
玉は息を吐きそうになるのを堪えた。
(この人、意外と優しい?)
だが次の言葉は、刃のように鋭かった。
「だが、お前の目は揺れていなかった」
玉の背筋が凍る。
信忠は続ける。
「恐れがあるのに、目が揺れぬ。
それは、生き残るための覚悟を持つ者の目だ」
玉は喉が乾いた。
(……帰蝶様と同じだ)
見抜く。
一瞬で。
信忠はゆっくりと庭へ視線を向けた。
「長島の後、城の空気は変わった。
父上は勝ったが、勝ち方が重すぎる」
玉は返す言葉がなかった。
信忠は低く言う。
「兵は勝利を喜びたい。
だが喜べぬ勝利は、心を腐らせる」
玉は唇を噛んだ。
(それは……父が背負っていくものにも似ている)
信忠は玉を見下ろし、淡々と言った。
「お前は、何を見た」
玉は迷った。
見たものを語れば、血の匂いが漏れる。
語らなければ、疑われる。
玉は、少しだけ言葉を選んだ。
「……粥を受け取る手が、震えている方が多うございました。
それと、目が……眠れていない目でした」
信忠は頷く。
「そうか」
そして少し間を置き、ぽつりと言った。
「お前は、城の中で何を聞いた」
玉は胸の奥で叫んだ。
(これだ)
(情報を得る機会)
だが、欲を出せば終わる。
聞き返したら怪しまれる。
玉は慎重に答える。
「……兵の方々が、夜に火の夢を見ると。
それから……都の噂が、こちらにも届くと」
信忠の目が、わずかに鋭くなった。
「都の噂?」
玉は小さく頷く。
「将軍様が戻るという噂が、消えぬと……」
信忠は静かに息を吐いた。
「……くだらぬ噂だ」
だがその声音には、苛立ちがあった。
玉は思った。
(くだらぬ噂でも、国を動かす)
信忠は玉の顔をじっと見た。
「その噂を、誰が喜ぶと思う」
玉は心臓が跳ねた。
(試されている)
答えを間違えれば、危ない。
だが、黙ればもっと危ない。
玉は一歩だけ踏み込んだ。
「……信長様を恐れる者が、喜ぶのではないでしょうか」
信忠の口元が、ほんの僅かに上がった。
「……そうだ」
その瞬間、玉は確信した。
(この人は、信長様の子だ)
(理屈で物を見る)
(感情より、先に筋を追う)
信忠はゆっくりと言った。
「父上の力は、国をまとめる。
だが強すぎれば、逃げ場を失った者は噂に縋る」
玉は静かに頷いた。
信忠は背を向け、庭の池を見た。
「お前の粥は、兵を救った」
玉は思わず顔を上げた。
信忠は振り返らず続ける。
「救ったのは腹だけではない。
城の空気も、少しだけ軽くした」
玉は喉の奥が熱くなった。
(……褒められている?)
信忠は最後に一言、淡々と言った。
「余計なことは言わぬ方がいい。
お前は賢い。だから危うい」
玉の胸が締め付けられる。
信忠は帰蝶の部屋へ戻るよう歩き出した。
「だが――」
一度だけ立ち止まり、玉を振り返った。
「賢い者が沈黙する城は、いつか崩れる。
だから、働け。お前のやり方で」
玉は小さく頭を下げた。
「……はい」
信忠の背が遠ざかっていく。
玉はその背中を見つめながら、胸の中で呟いた。
(信忠様は……敵ではない)
(けれど味方とも言い切れない)
(ただ、見ている)
玉は拳を握った。
(私は、この城で生きる)
(父を守るために)
噂の井戸に、またひとつ水が落ちた。
それは、恐怖ではなく――希望の音だった。




