第四十六話「噂の井戸」
朝は、早かった。
岐阜城の厨は夜明け前から火が入り、薄暗い中で湯気が立ちのぼる。
鍋の蓋が鳴り、薪が爆ぜ、湯の匂いが木の梁に染みていく。
玉は袖を整え、桶の水で手を清めた。
昨夜、眠れぬまま考えていたことがある。
(私は……知らなさすぎる)
史実の名前は覚えている。
本能寺、山崎、関ヶ原。
細川忠興。
ガラシャ。
だが、なぜそうなるのか。
どうしてそこへ辿り着くのか。
原因が、まるで分からない。
(結果だけ知っていても、何の役にも立たない)
玉は静かに息を吐いた。
(必要なのは、情報だ)
厨の者は噂を知っている。
洗濯場の女は口を知っている。
使いの小者は道を知っている。
兵の世話係は戦を知っている。
旅僧や薬売り、商人は国の動きを知っている。
身分が低い者ほど、噂は集まる。
噂は井戸の水のように、気づけば溜まる。
そして、溜まった水は、いつか溢れる。
玉は火を見つめながら決めた。
(私は井戸を掘る)
(噂が勝手に流れ込む場所を作る)
最初に玉が動いたのは、厨だった。
朝餉の支度の最中、鍋の傍で忙しなく動く若い下男が、湯気に顔をしかめている。
額には汗が浮き、息も荒い。
玉はそっと椀を差し出した。
薄い味噌汁に、少しだけ塩を足したもの。
「……よろしければ、これを。
お忙しいでしょうから、少しでも」
下男は目を丸くした。
「えっ……玉様、俺が飲んでいいんで?」
玉は小さく頷いた。
「はい。皆さまが倒れてしまっては困りますし……」
下男は慌てて頭を下げた。
「……ありがとうございます!」
椀を受け取り、味噌汁をすすった瞬間、下男の顔がほっと緩んだ。
「……あったまる」
玉は鍋の方へ目を戻しながら、さりげなく言った。
「昨日戻られた兵の方々……ずいぶんお疲れに見えましたね」
下男は箸を止め、声を落とした。
「……長島ってとこが、地獄だったらしいっす」
玉の胸が小さく跳ねた。
だが表情は変えない。
「地獄……ですか」
下男は首を振った。
「俺も詳しくは知らねえけど……帰ってきた連中が、夜になると呻くんだと。
火の夢を見るって」
玉は静かに頷いた。
(火の夢)
(私と同じだ)
玉はもう一椀、味噌汁を用意して他の者にも渡した。
すると厨の中で自然に声が増える。
「信長様は怒ってはおられぬらしいぞ」
「怒らぬ方が怖い」
「次は伊勢だけでは終わらぬ、と」
噂は湯気に混じって立ち上っていく。
玉はそれを、黙って胸に沈めた。
次に玉が向かったのは、洗濯場だった。
川の水を汲み、衣を叩き、女たちが膝まで濡らして働いている。
玉が近づくと、最初は皆が身を固くした。
玉は侍女に小さく首を振り、籠を置くと、袖をたくし上げた。
「……少しだけ、お手伝いしてもよろしいですか」
侍女が慌てる。
「玉様!そのようなこと……!」
玉は柔らかく微笑んだ。
「私も、やり方を覚えたいのです。
帰蝶様のもとにおりますと、色々なことを求められますから」
女たちが顔を見合わせ、やがて苦笑した。
「姫様がそんなことまで……」
玉は衣を揉みながら、さりげなく言った。
「この布……油が落ちにくいですね。
灰を少し混ぜて揉むと落ちやすいと聞きました」
洗濯女が驚く。
「灰……?」
玉は頷いた。
「はい。灰汁を使うと良いそうです。
それから……手荒れがひどい方は、米糠を混ぜると割れにくいと」
洗濯女のひとりがぽつりと呟いた。
「……玉様、薬師みてえだ」
別の女が笑う。
「帰蝶様の側ってのは、こんなことまで覚えさせられるのかね」
玉は少し困ったように微笑んだ。
「いえ……旅の者に教わっただけです」
女たちは安心したように手を動かし始めた。
そして自然に話が漏れる。
「長島から戻った兵がな、昨夜、湯殿で泣いてたってよ」
「泣く?兵が?」
「泣くさ。女や子まで燃やしたって噂だもの」
玉の指が一瞬止まった。
だがすぐに布を揉み直し、声を落として言った。
「……そういう噂は、上の方まで届くのでしょうか」
洗濯女は肩をすくめた。
「届くとも。女の口は速いからね。
あっという間に京まで行くよ」
玉の背筋が冷えた。
(京まで……)
(父のいる場所まで……)
昼、玉は使いの小者を見つけた。
小者は城の中を走り回り、命令を運び、文を届ける。
彼らは誰よりも多くの話を聞く。
玉はそっと近づき、小さな包みを差し出した。
乾かした梅と塩昆布。
「……お忙しそうですね。
もしよろしければ、これを。少しは力になると思います」
小者は目を丸くし、慌てて頭を下げた。
「玉様……!こんなもん、俺が貰っていいんですか!」
玉は小さく頷いた。
「はい。皆さまが倒れてしまっては困りますから」
小者は包みを握りしめ、嬉しそうに笑った。
「……ありがとうございます!」
玉は一拍だけ間を置き、何気ない口調で続けた。
「ところで……京へ行く道は、今どこが騒がしいのでしょう。
皆さま忙しそうで……」
小者は一瞬、周囲を見回した。
誰もこちらを気にしていないのを確かめると、声を落とした。
「……比叡山の方が、なんか騒がしいっす。僧が武装してるって。
それから京は……将軍様が戻るって噂が、まだ消えねえんです」
玉の胸がひやりとした。
(将軍……)
小者はさらに続けた。
「追われたはずなのに、どこかで兵を集めてるって。
京の町じゃ、その話ばっかりらしいっすよ」
玉は表情を崩さず、静かに頷いた。
「……そうなのですね。教えてくださって、ありがとうございます」
小者は急に饒舌になった。
「信長様が怖いからって、皆、将軍様に縋ってるんすかね。
でも……戻ってきたら戻ってきたで、また戦になるってのに」
玉はその言葉を胸に沈めた。
(噂は、ただの噂じゃない)
(誰かが流している)
(誰かが望んでいる)
玉は包みを渡した手を引き、柔らかく微笑んだ。
「また何かございましたら……聞かせてくださいね」
小者は勢いよく頷いた。
「はい!玉様!」
玉は小さく息を吐いた。
(これでいい)
(質問をしすぎない)
(勝手に喋りたくなる形を作る)
夕刻、兵の世話係の老人に玉は薬草を渡した。
乾燥させた菊と薄荷。
湯に落とせば、喉が楽になる。
老人は包みを受け取り、目を見開いた。
「姫様……こんなもん、どこで」
玉は少し俯いて答える。
「……旅の者に教わりました」
老人は苦笑した。
「また旅の者か。……だが助かる。兵は咳が止まらん」
玉は胸の内で頷いた。
老人は声を落とす。
「……長島帰りの者は、夜に眠れん。
火の匂いがする、と言う」
玉は静かに目を伏せた。
老人は続ける。
「信長様は強い。だが強すぎる。
強すぎる殿は、味方を増やすが、敵も増やす」
玉はただ聞いた。
それは噂ではなく、戦場を知る者の実感だった。
数日後。
城下に来た薬売りが厨へ薬草を届けに来た。
玉は偶然を装い、そっと近づいた。
薬売りは玉の年齢を見て笑ったが、玉が草の名を正確に言い当てると顔色が変わった。
「……姫様、何者で?」
玉は柔らかく言う。
「ただ、薬を買いたいのです。
この城には……眠れぬ方が増えておりますから」
薬売りは唇を引き結び、声を落とした。
「……長島の後は、どこもそうでございます」
玉は静かに尋ねた。
「京は……どうでしょう」
薬売りは一瞬ためらったが、玉が銭を置くと口を開いた。
「京は噂が多い。
将軍を巡る話。信長様の話。
そして……明智殿が忙しすぎるという話」
玉の胸が締め付けられた。
(父の名が出た)
薬売りは続ける。
「明智殿は火消し役です。
燃える前の火を、毎日踏み潰している。
だが踏み潰すほど、手が煤で黒くなる」
玉は言葉を失った。
(そうか)
(父は……そういう場所にいるのか)
その夜、玉は部屋に戻り、灯明を見つめた。
胸の奥が重い。
だが昨日までの闇とは違う。
少しだけ、輪郭が見えた。
噂は恐ろしい。
だが噂は武器にもなる。
玉は布団の上で膝を抱え、静かに息を吐いた。
(耳は作れる)
(井戸を掘れば、水は溜まる)
自分のしていることは卑しいかもしれない。
だが未来を守るためなら、綺麗事では済まない。
玉は灯明の火を見つめながら、小さく呟いた。
「……まずは、集める」
戦の前に。
縁談の前に。
父が折れる前に。
玉の小さな戦が、静かに始まっていた。




