第四十五話「知らぬ理由」
夜更け。
岐阜城の一室で、玉は灯明の揺れる火をじっと見つめていた。
昼の喧騒が嘘のように静かで、遠くから聞こえる虫の声だけが時を刻んでいる。
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
(……私、知らなさすぎる)
玉は膝を抱え、息を吐いた。
名前なら知っている。
本能寺、山崎、関ヶ原。
歴史の“結果”だけは、前世の記憶の中に刻まれている。
だが
(なぜ、細川に嫁ぐのか)
その理由が分からない。
ただ史実に「嫁いだ」と書かれているだけだ。
細川忠興。
激しい気性。嫉妬深い。
そんな断片的な印象だけが浮かぶ。
(でも……今の私は、細川なんて影も見えない)
繋がりがない。
縁もない。
名を聞くことすらない。
なのに未来には「嫁ぐ」と決まっている。
玉は歯を食いしばった。
(どこで、どうやって繋がる?)
(誰が話を持ってくる?)
(帰蝶様?信長?それとも父?)
分からない。
そしてそれ以上に分からないのが――父のことだった。
(父は、なぜ謀反を起こす)
明智光秀。
織田家の中で、それなりの地位にいる。
今日までの様子を見ても、無能ではない。
むしろ優秀すぎるほどだ。
それなのに。
なぜ、主君を討つのか。
信長の苛烈さは知っている。
残酷で、短気で、恐怖で人を従わせる――そんな逸話は読んだ。
けれど、苛烈だからといって謀反になるとは限らない。
耐え、飲み込み、従う武将はいくらでもいる。
(父は、何を見てしまうんだろう)
玉は薄い布団の上で、手を握りしめた。
そしてふと、昼間に見た眼が浮かぶ。
信忠。
嫡男。
理性的で冷たい眼。
信長とは違う、静かな圧。
(信忠様のこと、何も知らない)
知っているのは、ただひとつだけ。
本能寺で、一緒に死ぬ。
それだけ。
それだけしか知らない自分が、急に怖くなった。
(未来を知っているつもりで、私は何も知らない)
父が織田家の中でどう扱われているのか。
どれほど働き、どれほど削られているのか。
そして京で、何を背負わされているのか。
玉は思う。
父は今、京にいる。
それは知っている。
だが京に「拠点」があるのか。
味方がいるのか。
敵がいるのか。
何も分からない。
(信長のいいように使われている)
そんなイメージだけが、玉の中にこびりついていた。
それは恐らく偏見だ。
だが、今日の長島の匂いが、その偏見を強めてしまった。
玉は灯明を見つめたまま、小さく呟いた。
「……もっと勉強しとけばよかったな」
独り言は、夜に吸い込まれていく。
静かな部屋で、玉は改めて悟った。
料理では足りない。
宴でも足りない。
必要なのは、根。
誰と誰が繋がり、誰が誰を憎み、誰が誰を恐れているのか。
この国の血管のような情報網。
(やっぱり……情報だ)
玉は胸の内で、何度も同じ言葉を繰り返した。
情報を得る手段。
耳。目。口。
父へ届く道。
京へ届く道。
それを作らなければ、未来は変えられない。
玉はゆっくりと目を閉じた。
不安で頭が重い。
眠れば、炎の夢を見るかもしれない。
それでも。
この夜の落胆が、次の行動を生む。
そう思わなければ、心が折れてしまいそうだった。
玉は小さな拳を握った。
(私は……まだ間に合う)
(本能寺まで、時間はある)
(細川の縁が生まれる前に、必ず手を打つ)
そう決めて、玉は暗闇の中で呼吸を整えた。




