第四十三話「灰の匂いと、嫡男の眼」
岐阜城の空気が変わったのは、ある朝だった。
廊下を行き交う足音が早い。
襖の開閉が荒い。
女中たちの声は低く、短く、どこか怯えている。
戦が近いのではない。
戦が終わったのでもない。
戦の“後”が、城に戻ってきたのだ。
玉は厨の隅で、大鍋を見つめていた。
湯気が立つ。
米がほどけ、白く濁った汁の中で、刻んだ菜が揺れる。
塩をひとつまみ。
昆布と煮干しで取った薄い出汁。
豪華な膳ではない。
褒美もない。
ただ、生きるための飯。
それでも玉の指先は、わずかに震えていた。
(長島……)
その名を思い出すだけで、胸の奥が冷たくなる。
見たわけではない。
だが、前世の記憶の中に、断片的な文字が残っている。
焼かれた。
囲まれた。
逃げ場がない。
皆殺し。
たった数行のはずなのに、脳裏に映る光景は生々しい。
火の色。
黒煙。
叫び声。
水辺に追い詰められた人影。
(……戦じゃない)
玉は思った。
(あれは、ただの焼却だ)
喉が詰まった。
自分は岐阜城で料理を作り、帰蝶の側で生き延びている。
だがその裏で、同じ時代の人間が、火に包まれて消えていく。
玉は鍋の縁に手を置き、息を吐いた。
(私は……何もできない)
この世界では、子供の声は軽い。
女の声はさらに軽い。
信長の決断に、玉が割り込む余地などない。
分かっている。
分かっているのに、胸が痛い。
「玉!」
厨の外から声が飛んだ。
「兵が戻った!粥を運べ!」
玉ははっと顔を上げた。
「……はい」
返事をして、玉は椀を並べ始める。
一つ、また一つ。
火傷しそうな湯気の中で、黙々と手を動かす。
(これが私の仕事だ)
(これしかできない)
盆に椀を載せ、玉は廊下へ出た。
板間を抜けるにつれ、匂いが変わっていく。
汗。
鉄。
土。
血。
そして――煙。
灰の匂い。
玉は足を止めそうになり、唇を噛んで歩き続けた。
(戻ってきたんだ)
(長島の匂いが……)
広間の前には、鎧を脱ぎかけた兵たちが座っていた。
腕に包帯を巻いた者。
顔に煤がこびりついた者。
目が虚ろで、どこを見ているのか分からない者。
誰も騒がない。
笑い声もない。
ただ、生き残った者の沈黙がある。
玉は椀を配り始めた。
「……どうぞ」
兵は礼も言わず、ただ粥をすすった。
それが、玉には痛かった。
(礼を言う余裕すらない)
(心が焼けている)
玉が次の椀を渡そうとした、その時。
空気が一瞬、張り詰めた。
足音が混じった。
乱暴ではない。
だが軽くもない。
歩幅が一定で、迷いがない。
板間を踏む音が、静かに近づいてくる。
兵たちが自然に背筋を伸ばし、道を空けた。
玉は思わず顔を上げた。
若い男が立っていた。
まだ少年の面影を残しながら、眼差しは鋭い。
だが信長のように刺す眼ではない。
測る眼。
冷たいのに、曇っていない。
その男の周囲だけ、音が消えたように感じた。
玉は息を呑む。
(……信忠様)
織田信長の嫡男。
噂でしか知らない存在。
だが、実物は想像よりも静かだった。
信忠は兵たちを見回し、短く言った。
「よく戻った。生きているなら、それでよい」
慰めではない。
叱責でもない。
ただの事実。
兵たちが一斉に頭を下げる。
「は……」
信忠はそのまま歩き、玉の前で止まった。
玉は慌てて膝をつき、盆を抱えたまま頭を下げた。
「……失礼いたします」
信忠はしばらく黙っていた。
玉は視線を感じる。
(見ないで)
(私の目を見ないで)
長島を思い浮かべた自分の目は、きっと普通ではない。
恐れと、怒りと、無力感。
それらが混じった目。
信忠が低い声で言った。
「お前は帰蝶様の下の者か」
玉は小さく答えた。
「はい。玉と申します」
信忠は名を繰り返した。
「玉……」
その呼び方が、妙に胸に刺さった。
(私は玉)
(ガラシャではない)
(まだ燃えていない)
まだ
信忠は盆に並ぶ粥を見た。
「粥か」
「はい。戦より戻られた兵に、胃に優しきものをと……」
信忠は一歩近づき、椀の中を覗き込む。
刻まれた菜の細さ。
塩の量。
出汁の香り。
そして、信忠の視線が盆の上を滑る。
椀の数はぴたりと揃っている。
怪我の重い兵が先に受け取れるよう、配る順まで整っている。
玉は気づいてしまった。
(料理を見ているんじゃない)
(段取りを……)
信忠は静かに言った。
「お前は兵を動かすことを知っているな」
玉の喉が詰まった。
(何を言っているの)
(私はただ――)
だが、否定の言葉が出ない。
信忠は続ける。
「飯は兵の命だ。
だが飯の配り方を誤れば、兵は乱れる」
玉の指先が冷えた。
(この人……)
(軍の眼を持っている)
玉は思わず、口が動きかけた。
「……長島は……」
その言葉は、喉で止まった。
言えば終わる。
この場で語れば、余計な火がつく。
玉は慌てて口を閉じた。
だが信忠は、その沈黙を見逃さなかった。
信忠は少しだけ目を細めた。
「言わずともよい」
その一言が、玉の背筋を凍らせた。
(分かっている)
(この人は、私が何を思ったか分かっている)
信忠は椀を一つ取り、自ら口に運んだ。
粥。
粗末な飯。
だが信忠は頷いた。
「……良い」
その言葉だけで、兵たちの呼吸がほんの僅かに緩む。
信忠が食べた。
それは許しだった。
玉は頭を下げたまま、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
(食べてもらえた)
(私の作ったものが、生きるために役に立った)
信忠は淡々と告げた。
「帰蝶様に伝えよ。
感謝申し上げると、この信忠が申しておったと」
玉は深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
信忠は去ろうとした。
だが、一歩踏み出して止まった。
振り返らず、ぽつりと言った。
「お前は、戦を見たことがある目をしている」
玉の心臓が跳ねた。
信忠は続ける。
「恐れるな。
その目を持つ者は、この城では貴重だ」
玉は声が出なかった。
ただ、深く頭を下げる。
信忠の足音が遠ざかっていく。
残ったのは、灰の匂いと粥の湯気。
玉はゆっくり顔を上げた。
視界が滲んでいた。
泣いているわけではない。
ただ胸が痛い。
玉は自分の手を見つめた。
(私は、前世の記憶から料理を作ってきた)
(覚えたのではない)
(知っていただけだ)
(借り物の知恵で、生き延びている)
そのことが、急に恥ずかしくなった。
だが同時に思う。
(この知恵が、誰かを生かすなら)
(私は、まだここにいる意味がある)
玉は広間の奥を見た。
戦は終わっていない。
火は消えていない。
そして、この城には信長だけではなく、信忠がいる。
玉は胸の奥で呟いた。
(……この人を味方にできれば)
(未来は変わる)
だが恐ろしい予感もあった。
信忠は理性的だ。
理性的だからこそ危険だ。
信長の火を受け継ぎながら、信長より冷静に火を操る男。
火が制御されれば、もっと遠くまで燃え広がる。
玉は震える息を吐いた。
(私は、何をすべきだ)
答えはまだ見えない。
ただひとつ確かなことがあった。
信忠の眼が、玉を捉えた。
そしてその瞬間から
玉はもう、ただの下働きではいられなくなった。




