第四十二話 「長島一向一揆」
岐阜城の空気が変わったのは、ある朝だった。
廊下を行き交う足音が早い。
襖の開閉が荒い。
いつもなら笑い声が混じるはずの女中たちの声が、低く、短い。
玉は盆を抱えたまま立ち止まり、耳を澄ませた。
「伊勢が……」
「長島が……」
「殿が御立ちになる」
その言葉だけで、胸の奥が冷たくなった。
(長島……)
玉は、覚えていた。
詳しくはない。
歴史の教科書の数行。
誰かの文章で読んだ断片。
けれど、その数行が、異様に強く記憶に残っている。
火。
逃げ場のない水辺。
囲まれた者たち。
そして――皆殺し。
(あれは……戦じゃない)
玉は思った。
(虐殺だ)
その光景を見たことがあるわけではないのに、脳裏に浮かぶ。
煙と、叫びと、焦げた匂い。
子供の泣き声。
女の叫び。
水に落ちる音。
想像のはずなのに、現実のように鮮明だった。
玉は指先が震えるのを感じ、盆を持ち直した。
(私は……)
(私は、これを知っている)
(知っているのに、止められない)
岐阜城の広間では、家臣たちが集まっていた。
鎧の音。
刀の鞘が畳を叩く音。
紙を広げる音。
誰もが忙しい。
誰もが戦の顔をしている。
帰蝶は静かに座し、ただ目を細めていた。
その横顔は冷たいほど落ち着いている。
玉は茶を運びながら、帰蝶の表情を盗み見た。
(奥方様は……何を思っているのだろう)
帰蝶は何も言わない。
けれど、その沈黙が、戦が避けられないことを告げていた。
信長の声が響いた。
「長島を潰す。今度こそ根を残すな」
その言葉は、刃のように短かった。
家臣たちが一斉に頭を下げる。
「ははっ!」
玉の背筋が冷える。
(根を残すな……)
(つまり、皆殺しだ)
玉は唇を噛んだ。
(私は何をしている)
(料理を作って、褒美を貰って、笑って――)
(その間に、あの人は火を放つ)
自分がこの城にいる意味を、玉は見失いそうになった。
(私は未来を変えるためにここにいる)
(父上を救うために)
(細川に嫁がないために)
(燃えないために)
そのはずなのに。
この世界は、玉の目的など関係なく、血を流して進む。
玉は膝が少し震えた。
(止めたい)
(止められない)
(誰かを救いたい)
(救えない)
自分が無力だと突きつけられる瞬間だった。
帰蝶がふと玉を見た。
鋭い視線。
玉は慌てて頭を下げる。
帰蝶は何も言わない。
だが、その目は言っていた。
これは織田の道だ。
ここにいるなら、見届けよ。
玉は胸の奥が痛んだ。
(私は……見届けるしかないのか)
(私は、黙って生きるしかないのか)
その夜。
玉はひとり、厨の片隅で手を洗いながら、指先を見つめた。
小さな手。
まだ子供の手。
(この手で、何ができる)
(火を止められるか)
(人を救えるか)
答えは出ない。
ただ、心の中に黒い影だけが残った。
長島。
その二文字は、玉にとって「戦国」という世界の本当の顔だった。
刀で斬るのではない。
火で焼く。
水辺に追い込み、逃げ道を塞ぎ、消す。
それを「勝ち」と呼ぶ。
玉は震える息を吐いた。
(……父上)
(父上は、こんな戦を望む人じゃない)
(だからこそ、父上が壊れる)
玉は拳を握った。
涙は出なかった。
泣けば心が折れる気がした。
その代わり、玉は小さく呟いた。
「私は……生きる」
生きて、見て、集めて、繋げる。
そしていつか
父を、運命から引き剥がす。
今はまだ、何もできない。
だが、何もできないことを知った今こそ、
玉の中で「覚悟」が形を持ちはじめていた。




