第三十九話「母へ届ける味」
宴は、夜更けまで続いた。
酒は回り、笑い声は増え、武将たちの頬は赤く染まる。
だが信長の目だけは冴えたままだった。
酔っているのではない。
酔わせているのだ。
――この場を。
――この家臣団を。
――自分の天下に。
帰蝶は扇の陰でそれを見つめ、心の中で静かに笑っていた。
(殿は、こういう時ほど恐ろしい)
(満足している時ほど、獣の目をする)
そしてその視線が、ふと玉へ向いた。
玉は膳の端に控え、頭を垂れていた。
宴の余韻の中、己だけが場違いなほど緊張しているのが分かる。
信長は杯を置いた。
「玉」
呼ばれた瞬間、座敷の空気が止まった。
勝家は思う。
(まただ)
(殿はあの娘を気に入った)
丹羽は思う。
(褒美を与える気か)
秀吉は思う。
(ここで玉が何を願うかで、価値が決まる)
帰蝶は心の中で息を整えた。
(さあ、申してみよ)
(お前は賢い)
(だが賢すぎれば、殿は疑う)
(子供の皮を被ったまま、答えを出せるか)
信長の声は低い。
「褒美を取らせる」
玉の胸が跳ねた。
褒美。
それは栄誉であり、同時に鎖でもある。
(望みを間違えれば、運命が固定される)
玉は喉が渇くのを感じた。
金。
着物。
屋敷。
位。
どれも危うい。
どれも“欲”に見える。
(欲を見せれば、駒にされる)
(駒にされれば、縁談が来る)
(縁談が来れば……細川)
玉の背筋に冷たいものが走る。
信長が言った。
「申せ。何が欲しい」
玉は膝をついたまま、深く頭を下げた。
そして、小さく、だがはっきりと答えた。
「……この味を、母に一度だけ食べさせとうございます」
その瞬間。
座敷が、静まり返った。
勝家は目を細めた。
(母……だと)
(褒美を望むなら、金でも土地でもあるだろうに)
丹羽は口元に笑みを浮かべた。
(賢い)
(欲を隠し、情を出した)
秀吉は内心で舌を巻いた。
(やりおる)
(子供の顔で、最も安全な願いを選びよった)
帰蝶は扇の陰で、微かに目を細めた。
(……そう来たか)
(うまい)
(政治臭を消し、しかも明智へ繋げる)
(玉はただの料理娘ではない)
信長は一瞬、黙った。
そして次の瞬間、声を立てて笑った。
「ははっ!」
その笑い声に、武将たちが安堵する。
信長は愉快そうに言った。
「よい。許す」
信長の心の声は、楽しげだった。
(母に食わせたい、か)
(可愛いことを言う)
(だが……ただの子ではない)
(この娘、面白い)
信長は帰蝶へ視線を投げた。
「帰蝶。明智の屋敷へ、蒲焼と吸い物を届けよ」
帰蝶は柔らかく頭を下げた。
「承りました」
だが心の中では笑っていた。
(殿が動いた)
(殿の口から“明智”が出た)
(これだけで価値がある)
信長はさらに言葉を重ねる。
「醤の雫も添えよ。
あの黒い汁だ。
玉が作ったものだろう」
玉の胸が跳ねた。
(殿が……醤油を覚えている)
(しかも、明智へ届けると言った)
それは小さな一歩だ。
だが玉には、それが大きな未来の分岐に思えた。
信長は杯を持ち上げ、家臣団に向けて言った。
「よいか。
この国は、力だけで動くのではない。
知恵と工夫があれば、味さえも変わる」
家臣たちは声を揃えた。
「ははっ!」
信長の心は満たされていた。
(俺が驚かせた)
(俺が見せつけた)
(俺の城は、俺の天下の縮図だ)
そしてその優越を、家臣たちが飲み込む様子が何より愉快だった。
帰蝶はその横顔を見て、心の中で呟く。
(殿は本当に、嬉しそうだ)
(この顔を見られるのは、私だけ)
(……そして玉もまた、この男を楽しませる道具になる)
帰蝶は玉を見た。
玉は深く頭を下げたまま、震える息を必死に整えている。
(緊張している)
(だが目は死んでいない)
(この娘は、まだ先を見ている)
帰蝶は思った。
(この娘は、私の手元で育てるべきだ)
宴が終わり、座敷の灯が落ちる。
武将たちが去っていく。
勝家は最後まで硬い顔だった。
(殿が楽しんでいる)
(だが楽しみの裏に、必ず刃がある)
丹羽は静かに確信する。
(玉という存在は、帰蝶様の武器になる)
秀吉は笑みを崩さぬまま思った。
(明智へ料理を届ける)
(これは殿の気まぐれではない)
(帰蝶様が仕掛けた)
(……面白い)
厨へ戻る廊下で、玉はひとり立ち止まった。
灯明の光が揺れている。
胸の奥が熱い。
(母上に届く)
(母上が食べる)
(母上が笑う)
(そして父上も……必ず知る)
玉は握りしめた手を見た。
小さな手。
だがこの手で、未来を少しずつ動かせる。
玉は静かに息を吐く。
(私は、ここで生きる)
(岐阜城で情報を集める)
(父上の立場を少しずつ上げる)
(そして――細川に嫁がない)
玉は唇を結んだ。
(まだ遠い)
(だが確かに、道はでき始めた)
夜の城は静かだった。
けれど玉には、歴史が動く音が聞こえる気がした。
小さく、しかし確かに。
――未来が、変わり始めている。




